信頼性は人の心をも包含する
向殿政男
日本信頼性学会誌2002年4月号巻頭言の原稿
大分前の話だが、先輩から工学の「工」という字の意味を知っているかと聞かれたことがある。「工」の字の上の横棒は天を意味し、下の横棒は人間社会を意味していて,両者を繋ぐ縦棒は、天の世界と人間世界をつなぐ事を意味していると言うのだ。工学の役割は、天の原理(自然界の原理)を用いて人間社会の幸せを実現することであり、天使(Engel)の如く天上世界と人間世界との仲立ちをすることにある。だから、英語でも工学のことをEngineering と言い、語源はEngelから来ているのである、と言うのである。私は、この話を聞いたとき感激をしたものであるが、後で、この話が本当の話ではなく創作(作り話)であるということを知った時、更に妙に感心をしたものである。それにしても、信頼性技術こそ、「工」の縦棒の実現に最も貢献できるものの一つに違いない。
私事になって恐縮だが、電気工学、電子通信工学、情報科学と専門を変えて来て、現在は、安全性、信頼性を包含した安全学を志向している筆者は、「工」が目指すところ、すなわち、人間の幸せの実現という変わらぬ目的に向かって、もがき続けて来たことに今更ながら気が付いた。実はこれまで何も実質的な貢献は出来なかったのではあるが。ただ、対象が、物やエネルギーといった物理的な対象から、徐々にシステム、情報、安全・安心とだんだん人間に近づいて、範囲を広げて来ているに過ぎない。対象が徐々に変わったのは、どうも年のせいばかりではなく、時代のせいのようである。時代は、明らかに変わる。
研究は、時代の申し子である。学会も例外では有り得ない。究極の目指すところは同じであっても、対象は時代と共に変わっていくべきものであり、変わらざるを得ない。時代と共に解決すべき新しい問題が生ずる。時代に対応しない学会は存在意義を失う。特に、現在は、激動の時代である。その中で、時代を読み、ゆるぎない不変な目的を保持しつつ、ダイナミックに対象や内容を変化させて行く必要がある。事実、当学会も、部品や製品の信頼性から、装置やプロセスとしてのシステムの信頼性、及びネットワークやソフトウエアの信頼性へとその守備範囲を広げてきている。更には、組織としてのシステムの信頼性から本特集号が取り上げているようなサービスの信頼性にまで、その範囲を広げようとしている。最近、本学会への投稿論文は、安全性関係が増えている。
正しく「工学」は、21世紀、物の世界から、安全で安心で信頼できる社会の実現という人の心の満足へと向うベクトルが大きくなることは間違いない。信頼性技術が最も期待される理由である。ただし、人間の幸せの実現と言う大目標に向かうためには、物と共に人間そのものを、特に人間の特性と人間の心のあり方も含めて、人間が幸せを感じ、満足を感じるとはどういうことかということを考えない限り、真の実現は有り得ないだろう。信頼性も、工学が対象を人間の心、すなわち満足や安心をその範囲に取り込もうとする時代に対応すべきで、信頼性は、人の心をも包含する技術であるべきであろう。
本学会も、これまでのハードとしての部品やシステムの信頼性の分野を足がかりにして、「安全と信頼」の両方を包含したそれこそ「安心して信頼」できる「安信」を対象とした領域横断的で総合的な学問分野を切り開く方向に進むことを期待したい。そのためには、ベテランの知恵と経験に期待すると共に、若者が自由な発想で活躍できる場を提供することが、最も大事であろう。
(むかいどの まさお/明治大学/副会長)