「日本のモノづくり,52の論点」,日本プラントメンテナンス協会,2002-12,pp.222-227の原稿
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信頼できる安全で安心なシステムづくりは日本から
明治大学理工学部情報科学科 向殿政男
1.まえがき
最近の我が国のモノづくりにおける問題点の中で,ここでは二つの点に焦点を絞って考えてみたい。一つは,製造業の空洞化と称される製造現場の外国への移転であり,もう一つは,我が国の安全神話が崩壊したと喧伝されるような事故,障害の多発である。この二つの問題点には,深層において共通した我が国が伝統的に持っている文化的傾向が深く関与している。戦後,成功を収めてきたこの文化的傾向は,グロ−バリゼーションの時代を迎えて世界が一つのマーケットになりつつある現在,却って我が国経済の発展の足かせになり出したといえよう。独自の文化を誇ると共に,世界共通のルールの自覚なしには生きていけない時代が来たのは,誰の目にも明らかである。ここでは,この深層において共通した点を考えると共に,その良い点に着目して,我が国から“信頼できる安全で安心なモノ作り,システムづくり”の情報発信をすることを提案したい。
2.グローバリゼーション
それでは,世界共通のルールなど在るのだろうか。グローバルスタンダードという和製英語が示す内容は,確かにアメリカ流,もう少し厳密に言えば,アングラサクソン流のやり方であり,必ずしも世界全体に通用する考え方でないだろう。しかし,これまでの世界の流れを見るとき,好き嫌い,良し悪しは別として,例えば,科学とビジネスの世界で英語が世界共通の言語の位置を占め出しているように,世界経済のルールはアングロサクソン流のシステムに,緩い形かもしれないが,収斂していくだろうことは,これまた誰の目にも明らかの様に思える。モノ作りの仕組みについても,実は同様なのである。文化摩擦,文明の衝突と騒ぐ前に,その内容を良く見てみると,絶対的な真では有り得ないの当然であるが,それは長い歴史を経て人類が勝ち得た知識の一つであり,世界の共通の知識として受け入れるに十分値するものであることに気が付く。例えば,インターネットが情報通信のインフラにおける世界標準の位置を占め,現代の世界がそれを受け入れつつあるのが良い例である。インターネットの場合,情報の伝送と通信のやり方に緩い標準を決め,それに則りさえすれば,誰でも,いつでも,何処からでもネットワークに接続できるようにすることで,世界中を一つのネットワークとして構築することができ,その上で,独自の文化や個性を重視した情報発信ができる仕組み(ルール)を決めたからである。
このような緩い形の世界ルールは,残念ながら我が国にとってはいつも外から来る。立ち遅れた現状に慌て,キャッチアップのために懸命に努力する。真面目さと優秀な面を以って,ある程度キャッチアップ出来る。キャッチアップできた成功体験に一安心して,既得権を得て変革を嫌う保守的な体制が出来上がる。しかし,世界は動きを止めない。その時には既に次に向かって世界は動いていて,世界のルールが新しい局面を迎える。また立ち遅れてギャップが広がる。この繰り返しのような気がする。そろそろ世界ルールの構築に対して,多くの分野で我が国からも積極的に発言をして貢献をしたいものである。その最も可能性の高い分野がモノづくりの世界であろう。我が国の伝統的なモノ作りの特徴を自覚してそれを発展させると共に,世界の流れと世界のルールに則った時,我が国のモノ作りの伝統は必ず復活し,世界の平和と福祉の実現に貢献することは間違いないと信じている。伝統とは,動かぬ理念のもとに時代に適切に対応していくことである。
3.我が国の課題
冒頭に,我が国の文化的傾向と記したが,具体的には何を意味するのであろうか。例えば,製造業で言えば,その良い面は,現場作業者の知的レベル,教育レベルの高さである。各個人の真面目さであり,倫理観の高さである。経営者としては,人を大事にし,職場で人を育てようとし,人間関係と長幼の序を重んじる世界である。例えばこれは終身雇用制にも繋がる。最近,これらすべてが崩れかけているというが,この良さを我々は自覚すべきであろう。その良い面を忘れて,例えば終身雇用制そのものが悪いなどという短絡的な発想は,無自覚そのものではないだろうか。悪いのは制度ではなくて,制度を与えられた固定的なものであると考えることであって,時代に対する適応の遅れや,制度の運用が悪いのである。既に旧来の終身雇用制度はそのままでは維持できなくなってきているのは明らかでるが,大事にすべきことは,その理念,考え方である。我が国の良い文化的傾向を放棄するのはもったいない気がする。一方,悪い面とされるのは,上記の良いとされる面の裏返しである。外よりも内を大事にする。価値判断の基準は,常に社内にある。外の広い世界を見て,大局的な判断,自主的な判断に基づき,自らを変えていくという姿勢に乏しい。改革は常に外圧によるのであって,自主的,自発的ではない。真面目さ,倫理観も社内だけに通用する真面目さ,倫理観である。これが既得権を重視し,常に体制を維持する方向に働く。価値観,制度や標準は誰かが決めて与えられるものであり,自主的に考え,それにより自らを律するという習慣がない。一方,世界は常に激動している。時代と共に,その動きが益々激しくなって来ている。これでは世界の変革を見過ごしてしまうことになる。その上,たとえ分かっても,現状を維持したい保守的傾向のために,その変革のスピードに付いていけないのである。
さて,本題に戻ろう。我が国の製造業が外国,特に中国等のアジアへシフトする原因は何であろうか。人件費の安さ以外にないだろう。世界的な企業は,世界何処でも製造できるものであるならば,最も安い人件費のところに製造現場をシフトするのは理の当然である。製造業の空洞化,雇用機会の喪失,技術の伝承が行われない,等々を嘆く前に,シフトできるということは,それほど技術レベルが高くないものであり,我が国で造る必要のないものになってきたということを意味している。我が国は,我が国でしか製造できないような高度な付加価値の高い製品を作るべきである。半自動化されて大量生産できるような製品は,国内で作る必要はないのである。我が国は,更に知的で創造的なモノづくりにシフトすべきなのである。このように答えは極めて単純である。モノ作りの分野だけではない。すべての分野において,世界をリードするということは,このようなことを意味している。
もう一つの事故,障害の多発の問題,すなわち信頼性,安全性の喪失の原因は何であろうか。カイゼン(改善)を最も得意とする我が国の品質管理技術は,世界のトップレベルにあったことは間違いない。現在でも,機能,性能,価格,等の面では世界を制している分野が多いのは事実である。それが最近,信頼性,安全性の面で支障をきたし始めた真の原因は,製品のレベルというよりは,システム,マネージメント,人間の意識のレベルであることに気が付く。モノづくりの対象は,製品レベルのモノからシステムへ,システム作りから制度作りへ,とシフトしてきている。例えば,製造現場がいくら優秀でも,その良さはシステム化されなければ,個人の能力に依存することになり,その良さは維持,継承されない。信頼性,安全性を管理するシステムそのもの,すなわちマネージメントシステムそのものが信頼性,安全性の対象なのである。そのためには,自主的に自分自身を律するためのシステムを作り上げるという側面が不可欠である。それがないと,情報は隠蔽され,現場の知恵はシステム化されず,事故の真の原因は探求されないことになる。作り上げるべきモノが大規模,複雑になればなるほど、この必要性が顕著になり,これまでのような日本的なマネージメントでは破綻が来る。目標・理念を明確にして公示し,情報を公開し,外部評価を導入し,証拠に基づく説明責任を果たす準備を常にしておく,等々が,現在の世界のルールである。これへの対応の遅れが,システム,組織レベルにおいて,最近,我が国で事故,障害が多発する真の原因である。
上記の二つの問題点に共通することは,我が国の文化的傾向とそれに基づくグローバリゼーションに対する対応の遅れが強く関連している。いたずらに対処療法をしても混乱し,無駄骨になるだけである。変わるべきものと変わってはならないものとを明確に見極める必要がある。モノづくりはもっとトータルに,長期的な歴史観を以って眺めるべきであろう。これは優れて文化的に課題である。
4.信頼でき,安全で安心なシステムの在り方
ここでは,モノ作りの例の一つとして,しかし筆者が今後の日本のモノ作りにとって最も大事であると考える,“安全なモノ作りに”焦点を絞って考えてみよう。ここでは“安全なモノ”を作ることと,安全に“モノを作る”ことの両方を対象にしている。このためには,安全とは何かと言う根本的な問に答えなければならない。例えば,信頼,安全,安心の違いは何であろうか。我が国のモノ作りは,これまで,この辺をないがしろにして来ているきらいがある。簡単に言えば,信頼とは,狭い意味では機能を維持する能力であり,安全とは人に危害を加えないことであり,安心とは人の心の安寧をいう。信頼性はモノの機能に関係し,安全性は人間の価値観に依存し,安心は心のあり方に関係する。信頼性が高くても安全でないものがあり,安全であっても安心できないものがある。逆に,安心であっても安全でないものがあり,安全であっても信頼性の低いものがある。これらは根本的に異なった概念である。ただし,我が国の信頼という言葉には,広い意味が在り,これらの三つを包含した概念と解釈できる面がある(最近,この広い意味の信頼性に関連して,デペンダビリティという用語が使われだしている)。例えば,我が国では,自動車事故で毎年1万人前後が死亡し,一方,原子力発電ではこれまでJCOの臨界事故で2人が死亡しただけなのに,多くの人は自動車よりも原子力の方が安心であるとは考えない。リスクという概念を通じて,信頼,安全,安心に関して,もっと国民的コンセンサスを得る必要がある。
ここでは,機械設備に関する安全,すなわち機械安全と呼ばれる分野を例にして,安全の考え方と安全なシステムの作り方について見てみることにする。機械は壊れるものであり,人間は間違えるものである。従って,絶対安全などあり得ない。役に立つシステムには,常にリスクは存在する。この当然のことを,我々日本人は,まず自覚する必要がある。絶対安全などというから,原子力安全では嘘をついたり,隠したりすることになる。図1に安全の定義を載せる。国際的には,安全とは,受け入れ不可能なリスクが存在しないことと定義されている。図1に示すように,誰でもが認めるような広く受け入れられるリスクのみが残されている状態が理想であろう。しかし,現実には,コスト,受ける利便性等を考慮して,許容可能なリスク(仕方がないから我慢できるリスク)のみとなったときに,安全としようという定義である。従って,常に残留リスクが存在する。現在の国際安全規格では,機械設備に存在する受け入れ不可能なリスクを許容可能なリスクまで低減する安全対策には,施すべき順番が指定されている。まず,機械設備の製造者(メーカー)がリスクを低減させなければならない。安全な機械を作る責任はメーカにありと宣言されている。製造者がリスクを低減させるための対策には,3段階あって,
(1)本質的な安全設計(本質的に危険なところがないように作る)
(2)安全防護及び追加の安全方策 (安全装置をつける)
(3)使用上の情報の作成 (注意を与える)
の順に適用させなければならないことになっている。機械設備を受け入れて使用する事業者(ユーザ)は,(3)の情報の提供を受けて,その後で初めて,教育,訓練,個人防護等の安全方策を実施する。我が国ではまだ常識的であるような危ない機械をユーザが教育,訓練で注意して使う時代は,世界的には既に終っている。
次に,図2に筆者が提案しているトリプルFシステム(F3システム)の構造を示す。人命を預かるようなシステムでは,最悪の場合には安全側にシステムを落ち込ませるというフェールセーフの考え方で基本的に構成すべきである。システムを構成しているサブシステムに故障が発生したり,安全装置自身が故障したり,安全が確認できない等の場合には,列車でいえば止めてしまうように,システムを安全側に確定論的に固定してしまうのである。しかし,これでは安全は確保されても本来の機能を果たしていない。そこで,フェールセーフを大前提に,故障が出来るだけ発生にないように,又は故障が発生しても他のサブシステムで代替するなどのフォールトトレラントシステム(冗長構成による高信頼性システム)として構成すべきである。信頼性技術の腕の見せ所である。ただし,故障ゼロはありえないので,これは確率論的アプローチである。更に,実際には,システムと人間との接点で多くの誤りが発生する。これを防ぐには,人間と接する面では,ファジィ理論や人工知能などの技術を用いて,知的に,柔軟に,そして分かりやすいような人間に優しいシステムを構成しなければならない。人間に見えているのはファジィの部分で,フェールセーフやフォールトトレラントは陰に隠れて見えない部分である。このように,フェールセーフ(Fail Safe)を大前提に安全に,フォールトトレラント(Fault Tolerant)技術を用いて信頼性高く,その上でファジィ(Fuzzy)理論等を用いて柔軟に構成する。これが提案するトリプルFシステムであり,このように構成されていることを知って,人間ははじめて安心してシステムを利用出来るのである。
危険の可能性があるならば,それを実行しなくても済む場合には(すなわち,安全側が存在するならば),敢えて実行しないというフェールセーフの考え方は極めて重要と考える。
人命に係るシステムでは,フェールセーフの思想が今後のシステムの在り方を示している。いや,何も,人命にかかわらなくても経済に係るシステムでも,政治に係るシステムでも,また会社組織や社会制度でも,同じ考え方が重要になるはずである。このような概念の元に,今後,我が国は安心で安全システムを自ら率先して構築し,世界に対して安全技術と安全の思想とを発信していくべきであることを主張したい。
5.あとがき
これからのモノづくりは,高度に知的な創造的作業である。我が国はこれで世界をリードしていくべきであり,それが出来る国である。前述したように,製造業の空洞化というのは,簡単にできることは他に任せ,もっと高度で知的な作業に専念できるというチャンスを意味している。我が国は,高度知的情報産業に特化していくのが今後の生きる道であろう。
我が国の“改善”の地道な努力,現場作業者のレベルの高さと真面目さ,これらがシステムとして結実しないのはもったいない。マネージメントシステム,評価とその対策,繰り返しの改善,ドキュメンテーションを重視した個人に依存しないシステム作り,等々が現在の世界の潮流である。我が国のこれまでの伝統的な良さを維持しつつ,今後の我が国もモノ作りの方向を抜本的に変えるには,現在のグローバルなシステム作りのルールにヒントがあり,学ぶべき喫緊の課題である。
多機能化,高性能化という科学技術の正の部分を拡張することに焦点を当ててきたこれまでのモノ作りも,車の両輪の一方として,負の部分を如何に少なくするかという環境と安全の面を重視する必要がある。これが21世紀の科学技術の在り方である。地球の有限性の認識、自然との共生、循環社会の構築、持続ある繁栄等々の理念に基づき、未来社会に対する責任を想って今後の社会を営まなければならない我々にとって、環境と安全は本質的課題であることを疑う人はもはや居まい。便利さ,高機能の追求と同時に,安全と環境という自制の面とが車の両輪になって科学技術を進歩させるしか,今後の人類の仕合せで健全な発展を継続させる道は無い。環境については我が国も貢献しつつあるが,こと安全に関しては,後進国と言わざるを得ない。世界地図上での地域的な幸運,優秀な現場の技術者等のお陰でこれまで比較的安全であった我が国は,安全の技術と考え方に関心が少なかったのは仕方がないかもしれない。しかし,グロ−バリゼーションが進展し,大規模,複雑なシステムを構築せざるを得なくなった現在,信頼,安全の面で各種の問題が露呈し始めている。
数多く考えられる我が国の今後の誇るべき,そして発展させるべき科学技術の中で,安全に関する技術開発,信頼できる安全で安心なモノ作り,システムづくりを筆者は提案したい。21世紀に世界が最も必要とする技術であり,最も我が国に相応しい,世界に貢献できる高度知的情報産業の一つになり得ると信じるからでる。本稿では,安全の考え方と安全なシステムと技術のあり方を紹介したが,この考え方は何も製品レベルのモノだけに限るものではない。情報システム,社会制度等を構築する時の基本的な指針になり得るはずである。
信頼できる安全で安心なシステムづくりは日本から発信したい。安全技術を確立することでコストは下がり、使い勝手がよくなり、効率が良くなり、ひいては環境にも貢献することを身を以って実証することが重要である。安全の技術と思想の確立をもって、世界に貢献する。このように「安全立国」を掲げ、「安全」の理念を以って我が国の国是としたいというのは筆者の願いである。