[基調講演]
これからの大学の役割
明治大学 理工学部
教授 向 殿 政 男
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本講演記録は、私立大学連盟 教育研究支援専門研修会「ビジョンフォーラム--21世紀の大学のルネッサンス」(1999年9月)の基調講演として行なったもので、1999年度教育研究支援専門研究報告書,私立大学連盟,pp.19-32, 2000-3から転載したものである。
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本日は、「これからの大学の役割」という大それたテーマをいただきました。大学のトップでもない私が、専門家の皆様方の前でこのような大きなテーマでお話をするのは、恐れ多いことだと思います。しかし、私は私立大学情報協会(私情協)というところで、情報教育、情報環境について多少携わって来ましたので、情報という立場から見て、「これからの大学の役割」はどうなるかということを少しお話させていただきたいと思います。
大学の役割は、時代と共に相当変わっているということが調べてみるとわかります。教え育てるという根本は昔と変わっていませんが、時代と共に対応しなくてはいけないファクターが多々ありました。当然、これかも大学はその役割を時代に対応して変えていかなければいけないだろうと思います。そこでまず大事なことは、大学の使命の第一は教育にあるということです。
各大学には教育の理念、特に私学には必ず建学の精神があるはずです。明治大学の例で言えば、権利、自由、独立、自治という風に、官に対して民の力、野の力を蓄えて、申すべきことは申すという建学の精神があります。また、明大主義とも言うべき教員と職員と学生が一緒になって、大学をもり立てていこうという精神が昔からあります。この2つの精神に従って本学としてのこれからの大学の役割を考えて行く必要があると思います。
例えば、ここで明治大学は創立120周年を迎えますが、日本の大学の歴史は、せいぜい明治時代からですから、百数十年くらいです。ヨーロッパに行きますと、千年とか千五百年という歴史のある大学があります。ヨーロッパは一桁も歴史が日本のそれより古いのです。それらの歴史から分かりますように、大学の役割は国や歴史の流れによって違っています。一方で、最近の我が国のように、少子化、国際化、情報化などといろいろな短期的な時代の要請や流れが常に大学を取り巻いています。
そういう時代への対応と本来の大学の役割の二つを軸にして、学生、社会の要請にも応えながら新しい役割を見い出して行くことが重要だろうと思います。このような見方から、私は情報という立場でいくつか考えてみたいと思います。その前にこれまでの我が国の大学の役割と現在の大学を取り巻く環境、及びそれに対する大学の対応の現状について、全体を概観して見たいと思います。
1.大学の役割
(1)教育
先ほども言いましたが、大学の役割というものは「不易流行」です。つまり、変わってはいけないものと時代とともに変わらなくてはいけないものと二つあります。特に大学は第一の使命は教育であり、各大学には教育に関する大きな建学の理念がありますから、これはそんなに変えられるものではありません。変わらぬ面の例として、現在、アメリカのMITでは、民間との産学共同でいろいろな仕事をして、時代に対応して先端を行っていいる様に見えます。しかし、MITの建学の精神に産学共同という言葉が入っているはずです。建学当初からそういった精神で大学を運営し続け、それに従って何十年というオーダーで時代に対応して来たのです。それが現在のような大学が新しい企業を起こすお手伝いをするような仕事までにつながっているのではないかと思います。
しかし、建学の精神とは別に、皆さんを含めた我々が今、迫られていることは激動する時代への実際的で具体的な対応です。この変わる面を無視することは絶対にできません。現実には我々は今、実際的な対応を迫られているわけです。とは言え、少子化といった目先だけの対応に終始していたのでは、本来の大学の良さを見失う恐れが有ります。従って、この変わらぬ面と変わる面の2つを頭に置きながら対応していくべきだろうと思います。
誰もが現代の大学の役割とは(1)教育と(2)研究であるとおっしゃいます。これはあたり前の話でしょう。最近は、(3)知識・文明・文化の伝承及び、(4)地域・社会・産業への貢献も役割に加えられるようになりました。これらの四つについて、少し考えて見ようと思います。
まず教育を見てみますと、ギリシャ時代のように大学という概念がない時代でも教育機関はありました。そしてその学習者は、自分で好きな先生のもとで学んだり、自分で考えたりしていたのでしょう。そういう意味では、今で言う学習(「学ぶ・考える」)に近いと思います。勉強をしたいとか何かをやってみたいとか、自分はどう生きるかを考えるために教育の場はスタートしたと思います。一方、日本の大学は、社会全体のレベルを上げて日本国を栄えさせるために、大量に学生を集めて効率よく教えるというのが、今までのやり方だったわけです。
その「教える」という役割は、教育の中心になって来ます。これはまかり間違えると国家に都合のよい人材だけを効率よく育成するという形になってしまいます。教えるということの中身を考えると検討すべき課題が非常にたくさんあります。教えるという点からは、それまでのリベラルアーツ(教養教育)という視点よりは、企業等のための人材教育へ変わりつつあります。大学院へいって就職する学生もいますが、多くの学生は学部で就職するわけです。悪く言えば、ほとんどが企業のための人材供給になっていると言えます。企業の方からも、バブル崩壊前は「学生はある程度の才能がありますし、就職後は社内教育をいたしますから、ご心配なく大学で優秀な学生を推薦してください」と言われたものです。
このように、リベラルアーツという本来の教養を目指す大学はだんだん少なくなり、「大学は単なる企業への人材供給機関だ」と悪口を言われるような状態になってしまいます。このように、教育に関しても時代とともに少しずつ変わってきています。ある意味ではどんどん大学の役割は広がってきています。21世紀、次の役割は何だろうということをそろそろ考えておく必要があります。
先日、本学の1年生に「なぜ大学に来たのか」というアンケートをいたしました。するといろいろな答が出ました。先生方が最も期待する答えは、「ものの見方・考え方・勉強の仕方を学ぶため」ということです。つまり、人格の陶冶のため、自分で考えて勉強して自己実現を目指すため、人と触れ合うためというふうなことになるでしょう。しかしながら実際には、このようなことは大学の現在の授業の中から無理なようで、残念ながら現実には大学のクラブ活動等で身に付けたという人が多いようです。あるいは、「人間として教養をつけるため」という答えも期待したいところです。これは、知的好奇心を満たしたり、リベラルアーツや先ほどの学習を目指して大学に来ているということです。しかし、これらは残念ながら少数です。
ほとんどの学生の答えが、「将来の仕事の役に立つ知識と技術を身につけるため」ということです。多少、理工学部としての特殊性があるかも知れませんが、いわゆる職業人の育成ということです。だんだん高齢化してきますと、キャリアアップのために会社から派遣されたり、高度専門職業人教育を受けたり、資格取得のため等が今後の大学の目標になるでしょう。
その他としては、自由に遊びたいため、モラトリアムを楽しむため、いろいろな人生勉強をしたいためと言ったのもあります。それから、大学に入ってからじっくり目標を決めたいとか、みんなが行くから何となく行くとか、中にはなるべく勉強しないで卒業できるのがいちばんコストパフォーマンスが良いという学生も中にはいました。また、「とにかく就職するための通過駅である」と答えた学生もいます。このように、教育に関する今の学生の意識というのは相当広がっております。これに対して大学の教育に関する役割は何なのかということをもう一度考え直す必要があると思います。
(2)研究
学生にとって大学での研究とは、その人個人の為に大学院などに行って研究能力を高めることでしょう。しかし、大学で研究開発した技術が社会のため、そして産業を興すことにより国全体のレベルをあげることもあります。教育は国家百年の計として国民全体のレベルをあげることですが、これに対して、研究はその国の産業にフィードバックして国が栄えるという発想で社会全体のために研究開発をして行こうという面があります。最近は大学も産学共同という形で企業と共同研究をして一緒に力をつけようとしています。これは先ほどの教育まで包含して広がってくる話題だと思います。研究の立場でも、われわれはどういう役割を担うことになるだろうということを考える必要があります。
現在、実際に研究する上で大事なことに、新しい知識の創成、情報発信・情報公開、知的財産の保護と活用、等があります。最近は、卒業生や教員がTLO(技術移転機構)を通して特許を生かして会社を起こし、新しい産業を創出し、先ほどの地域振興にまでつながるような動きになってきています。この動きには各大学でも対応し始めていると思います。一方で、中には研究者を養成するよりも大学に後継者を残すために大学院博士課程で研究をさせているという非常に狭い発想の学部もあります。大学院で多数のドクターを出すというのは、ほとんど前者を目標にしており、後者の考え方は、既に古くなっています。
(3)知識・文明・文化の伝承
知識・文明・文化の伝承とは、日本の文化や文明を例えば時代の都合や戦争などで絶えることなく次の世代へ渡して伝えて行くということです。もちろん、これは人間が行うことは明らかです。大学のどこでそれを担っているかというと、先生方は30年か40年でお辞めになりますから、その大学の伝統として、伝えられることになります。より具体的なハードウエアとしては、図書館や博物館というところでしょう。なお、最近は図書館や博物館、それに情報科学センターを一緒にしてマルチメディアラボという形に統合する動きがあります。「図書館の文化と情報科学センターの文化というのは根本的に違うので、一緒にすることは問題だ」と言う方もかなりおられますが、時代の流れを見ますと、これは避けられない方向だと思います。知識・文明・文化のハードウエアとしての継承は、今後、マルチメディアセンターと言うことになるでしょう。情報技術が最も効果を発揮する分野です。
(4)地域・社会・産業への貢献
地域・社会・産業への貢献とは、地域を振興したり、地域産業を起こしたり、市民サービスとして公開講座や大学開放をすることでしょう。例えば、明治大学は御茶ノ水、生田、和泉の3つキャンパスがあります。メインキャンパスは御茶ノ水です。こんな狭いところでは大学のキャンパスというイメージはないのですが、この周りの喫茶店、食堂、本屋はみんな本学のキャンパスだと我々は思っております。神田や御茶ノ水には古本屋がたくさんあり、明治大学としては、本の文化の育成や情報発信の地として地域産業を振興させることにお手伝い出来る可能性は十分に有ります。
地域に対していかに貢献するか、地域といかに仲良くするか、また、地域の産業を如何に興すかということについては、大学として相当の役割を持っているはずです。それを無視して大学だけぼつんと居られないと思います。最近、大学が地方に移るような傾向にあったり、また揺り戻しで元へ戻ったりといろんな動きがあります。しかし、どこへ移ってもその地域・社会・産業への貢献が大学の新しい役割でもあります。
大学の役割とは、以上の教育、研究、知識・文明・文化の伝承、地域・社会・産業への貢献という4つに分けられると思います。少しわかりきった話をしましたが、これからのために簡単にサーベイをした積もりです。次ぎに大学を取り巻く時代の流れとその対応に付いてサーベイしてみましょう。
2.わが国の大学を取り巻く時代の流れ
(1)少子化・高齢化
時代は変わってきておりまして、今は激動の時代であります。わが国の大学を取り巻く時代の流れというのも、いろいろとあります。
まずは、今さら言うことはないのですが、少子化・高齢化が確実に来るということです。統計による推測は大体当たりませんが、この統計だけは間違いなく当たります。少子化・高齢化によって全入時代が訪れ、大学間競争が激しくなり、大学間の格差はどんどん広がり、大きい大学が小さい大学を吸収するだろうなどといろいろな言われ方をしております。18歳人口だけでは大学はやっていけませんので、一般の社会に出た人がもう一度戻ってくるという教育をせざるを得ません。これは今のアメリカを見れば明らかであります。ご存じのようにアメリカの18歳人口の占める割合は非常に低く、半分以上の社会人が大学に入って授業を受けています。これにより現在のアメリカの大学は成り立っているという事実があります。この流れも必須です。
(2)情報化
私は明治大学に現在の情報科学科をつくるのにこれまでいろいろ努力してきました。二十数年前、日本の国立大学で情報工学科とか情報科学科を作り始めた頃、私学には反対があり、なかな動きませんでした。特に古い大学ほど反対がありました。古い大学になればなるほど新しい時代に対応するのは非常に難しいということです。現状を見れば明らかなように、情報化というのはどうしても避けられない相当大きな社会へのインパクトがあり、今では対応をしていない大学はありません。新しい時代への対応を提案しても、なかなか動かない面が大学にはあるということを反省しなければならないと思います。
インターネットがここまで流行ると予想した人はいませんでした。1996年中にインターネットは消滅すると宣言した研究者がいます。それは、今のインターネットが持っているセキュリティの甘さによって非常に混乱・混雑して、結局は正しい情報が伝わらなくなってしまい、遂には消滅するだろうという意見でした。
私はその意見に猛反対をしました。人間はもはやインターネットを放棄するとは思われません。われわれが生きている間に現在のインターネットそのものが現在の形で生き残るかどうかわかりませんが、インターネットに相当する現在の情報伝達の仕方は、われわれが生きている間には決してなくならないと宣言していいと思います。今後、新しい技術が入り、セキュリティも強くなり、中身はどんどん変わります。今のインターネットは一般道路のように渋滞していて救急車も通れませんが、将来は、その救急車用の道路を一本通そうというような計画が必ず起きると思います。昔からわれわれ研究者は、インターネットの便利さと気安さからずっと使ってきました。ある意味では危ないところはたくさんありますが、この新しい情報通信手段を決して放棄しないだろうと思っています。インターネットが大学に与える影響は極めて大きいと確信しています。
その他には、デジタル化に基づくマルチメディアや衛星通信も情報化の重要な流れです。
(3)国際化、グローバル化、自由化、オープン化、ボーダレス化
また、国際化、グローバル化、自由化、オープン化、ボーダレス化などと言われているものもひとつの時代の流れです。これらによって基本的には競争原理が大学にも適用されるだろうと思います。
例えば学生が大学を選ぶときに、大学の第三者評価というのが非常に大きく影響しそうです。卒業後の学生の実力評価も第三者機関が行う可能性さえあります。先日、友人の先生方と次のような話をしましたことがあります。大学では多くの人がいろいろな教育をするので学生の実力についてはバラツキがある。もしかすると民間が集まって第三者の評価機関をつくって学生の実力を評価しようとするかもしれない。ある評価機関が、学生に対してどのぐらいの技術、知識、見識、経験等があるかどうかを評価してランクづけする。そうなると大学を卒業しなくても、ある程度の知識と実力を持っていて評価機関を通過すればOKだというふうになる。この場合には、文部省の御墨付きである卒業資格の問題はなくなります。また企業も社内教育ができなくなっていますので、ある程度の技術を持った学生をぜひ採用したいというふうにもなります。この時、第三者機関の格付けを重視することになります。そうなれば、きっと今の大学のメリットや存在価値のある部分はは失われるに違いありません。そうなったときに、一体われわれ大学人はどうしたらよいか。それは、「実力の世界でおもしろい」と言った先生と、「自分は食えなくなるから困ったな」と言った先生と、いろいろな反応がありました。
今、グローバル化に対して各大学は対応しようとしています。キーワードはいくつかありますが、その中の一つに情報公開があげられると思います。大学の中では一体何をやっているのかわからないところがあります。われわれでさえ大学の中で何が起きているのかがわからないことがあるので、もう少し情報公開をすべきだと思います。特に、現在多くの大学で始められている教員の業績成果の公開は、不可欠であると考えられます。
(4)高度技術革新
これからは情報と通信の技術もますます伸びてきます。いわゆる高度情報化と言うやつです。これは、10年や20年では終わりそうにありません。また、生命科学や物質科学などの新しい科学技術がどんどん開発されてきます。それに対して大学は新しい学科をつくって対応しています。
しかし、私の個人的な意見では、産業をつくって伸ばすというのは良いのですが、それだけでは我々は必ず行き詰まってしまいます。これは今までの例でも明らかです。新しいものを創造する科学技術と、環境、安全、福祉等の或る価値観をもって対象を評価する学問分野の両方が必要です。要するにバランスの問題であります。大学の新しい学科をつくるときもその両方のバランス感覚を持って対応していかなければいけません。これは新しい学科として一大学で対応する必要はありません。日本全体から見たバランス感覚をもって新しい学科をつくり、学生を教育して行く必要があるかと思います。最近、やっと自然や生物に学ぶという姿勢や、自然科学と人文科学との融合という視点が重要視されてきたという感じがします。この方向は今後、大事であると思います。
(5)社会の変化
社会そのものが大学の外でどんどん変わっています。この変化は我々としては社会の要請に応えるためにもちろん無視できません。
例えば、人事がどんどん流動する時代に入ったことは間違いありません。年功序列は日本のよさでもありますが、そろそろ能力主義へと変えていく必要があります。そういう意味では、先ほどの「大学は学生の選択機関」と言っていた企業も、専門家を採用せざるを得なくなってきています。資質だけでなく、その学生がどれだけ能力があるのか、どういう分野で特色があるのかを見抜いて採用せざるを得ません。
これは大学の職員自身もそうだと思います。以前は、“オン・ザ・ジョブ・トレーニング”で職員を大学内で徐々に訓練していました。しかし、そのうちに分野によっては、専門家を公募して採用するという形式になって来るでしょう。また、仕事のかなりの部分をアウトソーシング(外部委託)で対応せざるを得なくなるでしょう。一方、教員の方も、今までは自分の弟子を育てるように、同じ学派の後継者を養成していくという非常に悪い傾向がありました。それが先ほどの文化の伝承の一つの形態であるとは、私は決して思っていません。
また日本を取り巻く環境は、世界全体の環境の一環でもあります。世界的には、環境や福祉の重視、共生の思想といった新しい思想がだんだん出てきておりますので、大学の役割というのも社会の情勢を考えないといけないことは事実であります。
3.迫られる対応
大学は現在、いろいろな面で対応を迫られています。ここで、迫られている対応をリストアップしてみたいと思います。これらは皆さんが嫌というほどわかっていると思いますが、あまり対応が進んでいないのが現状です。
(1)教育の対象
1つは教育の対象の問題です。これが18歳人口から社会人へ移りつつあることは間違いありません。社会人教育や生涯教育については、今のところ残念ながら、採算が取れているところは少ないと思います。先ほどお話したようにアメリカは完全に社会人教育、生涯教育の時代に移っております。しかし、日本は同じ年代の人を大量に集めて効率よく教育するシステムをとって来ましたので、社会人教育というのは決してコストパフォーマンスはよくありません。しかし、この方向は絶対避けられない問題であります。
この様に、教育の対象がどんどん変わってきているというのは誰でも知っています。例えば、「教育研究支援」という支援の立場からも、この変化だけは間違いありませんので、この流れの方向から、再検討、再構築する必要があります。
(2)教育の内容
先ほどお話したように、今までの一括教育が多様化へと変化していきます。知識習得から問題解決へ、更には問題発見が重視されると言われますが、現実には多様化のために補修授業をやらざるを得なくなって来ています。
情報の例で見てみましょう。明治大学で何千人もの学生に対して情報教育をするときに、学生の実力に差があり過ぎて困っています。先生よりコンピュータに詳しい学生が明らかにいます。一方で、授業後、二度とコンピュータには触れたくないという学生がいることもまた事実であります。
明治大学ではパソコンを持ってきて、机のコンセントにつなげればインターネットができます。大学として“イントラネット”が構築されています。学生の中にはこの授業について来られない者も居ますが、最もついて来られないのは実は先生方です。これは当面の大問題です。情報関係に関しては、学生に対する講習をやっていますが、教職員に対する講習という問題があるのです。
これらは、教育の内容としては HOW TO物に近いリテラシー教育です。情報のリテラシー教育という、情報に関する最低限必要なHOW TO物も、そのうちに高校生、中学生の実力が伸びて必要がなくなるかもしれません。しかし、現在は最低限リテラシーを教えない訳にはいかないのです。
私は、情報関係のゼミ学生に対して「3つのリテラシーがないとうちのゼミに入るな。入ったからにはこれをマスターしろ」と言っています。1つはどうやってコンピュータをうまく使うかというコンピュータ・リテラシーです。これだけは最低限必要です。2つ目は英語のリテラシーです。英語ばかりが言語ではないという意見があります。しかし、世界共通語として英語が広まってしまっていますから、デファクトスタンダードとしてこれはもう仕方がありません。二、三十年前は、フランスの国際会議も同時通訳がついているという時代がありましたが、今では私の分野は全部英語で行われています。 国際会議が終わって出席者が集まると、日本人や中国人やインド人などが話す時の共通語は英語です。その英語もたどたどしい英語をゆっくりと話すことがいいのです。中国人は中国人の英語、日本人は日本人の英語、インド人はインド人の英語、それで話が通じます。その中にアメリカ人が入ってくると早すぎて途端にわからなくなってしまいます。そんな時僕らは「アメリカ人は英語がうまく話せないようですね」などと冗談を言っています。そういうたどたどしい英語は、インターネット上の英語に似ています。英語は、ある程度共通の言葉になりつつありますので、英語で読む、書く、話すということが必須になります。3つ目は数理・論理のリテラシーです。数学が嫌いなのに理工系に入学してくる学生がときどきいます。その学生に対して「最低限授業についていけるぐらいの数理・論理のリテラシーは身につけて欲しい」と言っております。以上の3つが私のゼミのリテラシーです。「こんなことまで大学でやるな」と私は怒られたことがありましたけれども、現実には、これらのHOW TO物をやらざるを得なくなってきています。
そろそろ、大学では基礎教育に専念し、大学院で専門教育や研究をするというふうに、ある程度役割を分担した方が良いのかもしれません。理系でいうと学部では理系の基礎までで終わってしまって、専門を教える時間的ゆとりがなかなかとれません。基礎教育を重視しなければならないのに、現在のカリキュラムでは専門教育もやらざるを得ないのです。
これ以外にも、実社会でのインターンシップ、今要請されている職業人の養成、更に研究者の養成などもあります。このように教育の内容も非常に広まっており、一つの大学でこれら全部を行うことは、ほとんど無理な時代になったという認識を持っています。
(3)入試の形態
これからの入試は、受験生を落とすことから集めることに変えていかざるを得なくなっています。受験日選択制や地方入試など各大学で様々な入試が行われていますが、簡単に言えば受験料を儲けたいとか、優秀な学生を集めたいという話から、入学人数そのものを確保せざるを得なくなってきているということです。この点から、入試の多様化というのが今問題になっています。広がりすぎて、教員が忙しくなり過ぎることや、入学者の実力のばらつき等から、そろそろこれまでの揺り戻しがやって来るのではないかと心配しています。5科目全部を受験科目にするという大学があってもいいはずです。受験生が集まらないからといって、全大学で受験科目を減らしてしまうというのは、多様化に名を借りた一種の一様化であって、悪い競争が始まっているような気もします。
それから、入試の評価基準はペーパーテストだけでしたが、もうそういう時代ではないことも明らかです。いろいろな選択基準があってもいいはずです。ただし、例えばスポーツの成績だけで大学に入れるというスポーツ推薦がありますが、そのためには、大学という教育・研究の場にスポーツだけが得意な学生を入れてどういう根拠があるのかというのを、学内でも明確に位置づける必要があります。その上で、選抜の仕方、基準等が情報公開されていれば何の問題も起こらないと思います。この辺が入試基準の多様化の問題点で、ここを意識して各大学は個性や特色を持たせるべきだろうと思います。
ある意味では、今のペーパーテストはいちばん効率がいい方法です。受験料を3万〜3万5千円もとって、ただのペーパーテストでおしまいです。ペーパテストにそんなにお金が掛かるわけがありません。受験生から見るととんでもないやり方だと私は思います。大学として大事な収入源であることは解ります。しかし、これは不正とまでは言いませんが、非常に不健全な経営の金の集め方ではないかという気がいたします。そろそろ入試体制も抜本的に変える時期にきていると思います。
(4)大学評価
大学の評価にも現在いろいろな動きがあります。第三者評価を大学基準協会で行いつつあります。カリキユラムなどの教育内容そのものや、教員などの教育組織、また先ほどお話した卒業生の実力等について他の組織に評価されるという時代が来ると思います。
アメリカにはプロフェッショナル・エンジニアリングというプログラムがあります。このプログラムはだれでも受講することができ、PEと呼ばれています。これに相当するものが日本でも早晩出てくる可能性があります。一方で、社会や企業からの評価よりも、学生本人や卒業生自身がどのように自分の大学を評価しているのかというのも重要になってくると思います。彼らが自分の大学に対して母校愛を持つことは、非常にうれしい事です。しかし、不満などの本音を聞くことが、これからの大学にとって非常に大事であろうと思っています。今までは入試という入口で学生を評価していましたが、そろそろカリキュラム内容という中味のチェック、卒業生の実力という出口の評価をすべきです。そういう意味でも厳しい時代になってきています。
(5)教員評価
教員の評価というのは、大学をランクづけするものではなく、われわれが大学の教育研究レベルをあげるための目安にするものです。そういう観点が非常に重要ですが、日本ではこの評価がなさすぎたと思います。
例えば、教員の業績も含めて各大学はそろそろ自分の大学について様々な情報を発信するべきです。現在の各大学におけるインターネットによる情報発信、情報公開は、本学も含めてまじめに機能しているとは思えません。また、教員の評価は抵抗が強く、特に文科系を中心に非常にそれが強いと聞いています。本学でも理系ではこれまでほとんどの先生は年間業績を一覧表にして出していましたが、昨年度から全学に呼びかけて出すようになったようです。しかし、以前の文系ではそうではなかったようです。今でも「1年で何本も論文を発表できるような研究をおれはやってない」と言う方がおられます。「大学の教員を論文の数だけで評価するのはけしからん、もっと多面的に評価しろ」と言っているわりに、入試や、在学生の試験ではペーパーテストだけで評価しているのは、矛盾していると思います。他人には厳しく評価するけれども、自分自身の評価を拒否する。これが日本の大学を生ぬるくしてきた一つの理由のような気がいたします。
悲しいかな、いい授業をまじめにやればやるほど学生に嫌われて逃げられてしまうという面が有るのも事実です。学生からのアンケート評価をやるようになると、すぐに学生に迎合する先生が出てきたりします。学生からの評価も含めて教育に関する評価は、そう簡単には行きそうにはありません。 私が今提案しているのは、例えば、学生からの評判や授業評価が高い先生を5人でも10人でも大学が選んで公表して表彰する。それを昇格などの基準に含めるぐらいのことは今からでも始められるから、やろうではないかとというものです。しかし、それを提案したらすぐに潰されました。現実には、相変わらず研究のみでしか評価されないようです。文部省の評価基準の中に研究業績だけではなく、学内でどういうことをやったか、社会貢献はどんなことをやったかを書くところがありますが、最後の審査委員は大学の教員ですから結局は論文数でしか見てないようです。
それから、管理運営というと変な言い方ですが、教授会の運営とか大学の運営というのは非常に重要で才能も必要です。よくこれを軽視する人がいますが、これはこれで相当の労力と気力を使っているはずです。「あいつは研究ができないから大学の運営をやっているので、好きでやっている」とよく言われますが、そうばかりではありません。研究ばかりで授業や学生の面倒を全然みない先生もいれば、授業は一生懸命やるけれども研究をまったくやらない先生もいます。あるいは、外部にばかり貢献して大学に全然出てこない先生、他のことは一生懸命でも大学の授業は不熱心だったり休んでばかりいるという先生がいたりします。それぞれお互いに非難しあっているけれども、良いところはお互いに評価すべきです。バランスのあった複眼的な評価方法をそろそろみんなで考えていくべき時期だろうと思います。
(6)授業形態
昼夜開講や二部の廃止など各大学でさまざまな授業形態の対応を迫られています。また、今回の研修のメインでもあります遠隔授業もその一つです。明治大学でも同志社大学や立命館大学と共同でこの実験をしました。今、私がお話しているような形で遠隔授業をしていますと、おそらく学生の半分は居眠りをしてしまいます。遠隔授業をする場合、各々の先生が得意な分野を分担しあいながら、双方向でコミュニケーションをしない限りうまくいかないと思います。予備校のように同じ授業を全員が一斉に受けて、一生懸命に知識を吸収するための授業タイプには遠隔授業とか衛星授業というのは役に立ちます。しかし、普段の大学の授業を遠隔でいくつかの大学に分けて、各大学間で同時にやろうとしてもなかなかうまくいきません。経験と技術が必要です。
私のゼミでは時々遠隔ゼミをやっています。なぜかというと、私自身がお茶の水に頻繁に呼び出されてとても忙しいからです。私の居るキャンパスは生田校舎ですが、1週間に数回はここの御茶ノ水校舎に呼び出されてしまいます。ここは本部ですから、会議はほとんどここです。何かあると「必ず来い」と呼び出され、1時間かけて来なくてはいけません。テレビ会議でもやってくれればいいのですが、人数が1人や2人だと、なかなかそういう施設をつくってはくれませんからわざわざ私は来るわけです。そうすると、ゼミが時々できなくなるわけです。 そこで、私は情報科学センターをお借りして、お茶の水に来ていてもいつでもゼミができる状態にしています。これは私のゼミでつくったソフトを使って、離れていても画面上に同時に両者の顔が出て授業ができるシステムになっています。お互いに話しが出来、かつ画面を共有できるので、私にとっては便利です。しかい、学生にとっては「先生は目の前で授業をやるべきだ」という不満があります。確かにごもっともですけれども、物理的に不可能なのでよろしくということでさせていただいています。便利ですが、遠隔授業というものが本当に効果があがるかどうかというのは、相当考えないといけないと思います。
それから、一般にホームページやウエッブを用いた授業も考えられます。今日私はここで話すためにフロッピーを1枚しか持ってきていません。その概要をみなさんのお手元に資料としてA4版1ページでお配りしましたが、考えていたことを5ページぐらいの資料に昨日の晩にまとめてみました。これをプレゼンテーション用に箇条書きにしてフロッピィに入れて、ここでパソコン経由でプロジェクタでお見せしている訳です。このぐらいの内容を作るには、数時間あれば十分です。このようにフロッピー1枚を持ってきていれば、このぐらいの講演用の資料は何とかなります。もちろん、こういう形で授業をやることも可能です。もっと複雑な形としては、インターネットから自分のホームページにアクセスして、そこで資料を取り寄せるということもできますし、世界中から必要な資料をオンラインで取り寄せて説明することもできます。そのような授業が、ウェッブを用いた授業ということです。
また、オフィスアワーと言うのがあります。学生からの質問や相談等のために研究室にいなければならない時間帯を指定しておくものです。私のように走り回っている人間には無理なことです。ですから、私自身はメールで質問を受け付けています。返答も1日以内にお返ししますということにしています。バーチャルオフィスアワーと言ったところです。しかし、1日のメールが数十本ぐらいまでなら何の問題もないのですが、 100本を超えたら読んではいられません。ですから、相当うまく取り扱わないとやっていけないと思います。
その他に、大学連携や単位互換といった自分の大学にない授業はどこかに頼もうという話も出はじめて、いろいろな対応が迫られています。
(7)大学院へのシフト
進学率が50%近くになってきますと、大学というのは一般教育だけの昔の高校教育と変わらないのではないかと考えさせられます。研究に近い分野は大学院にシフトせざるを得ないと思います。そうしますと、大学院も含めて特色を持たせる必要があります。明治大学理工学部でも、学部の4年間とマスター全課程の2年間の計6年間を一貫教育しようと試みています。まだ制度的には出来ていませんけれども、カリキュラム上可能になるよう柔軟な対応をしています。ご存じのように、今新聞を賑わしている高度職業人養成型の大学院、例えば司法試験専門の大学院などいろいろな対応を迫られています。これからの大学の勝負は大学院に移ると思います。
(8)経営の問題
大学も一種の経営ですから合理化をせざるを得ないというのは当然です。教員は大学の経営に対しては素人です。素人に大学の経営がうまくいくわけがありません。今までは、誰が経営してもうまくいく右肩あがりの時代だったのです。しかし、これからはそうはいきません。大学経営はプロに任せる時代だと思います。
例えば、今の教員、職員の数はそれぞれ妥当な数なのかなと疑問を持ちます。教員と職員のバランスや、ステューデントレシオは、大学によって相当違いがあります。そうしますと、プロが合理的に経営している場合は、特に施設運用管理等も含めて効率が大分違うのではないかと思います。新しい大学で本当に合理的にやっているところと、本学のように百何十年で経営の垢がしみついてなかなか動かないところでは、俄然効率が違っているという現実があります。
一方、今の学生の授業料について考え見ましょう。私は息子が3人いますので、授業料を払う方は大変だということがよくわかりました。今、学費は一括して納入しますけれども、その金額も含めてあれはどういう根拠があるのでしょうか。それほど明確な根拠はないと思います。少し高過ぎないでしょうか。他の大学と見比べながら決めているのではないでしょうか。先ほどもお話したように、第三者評価機関が卒業生にどのぐらい実力があるかを評価するようになれば、学生としては単位を貰うという目的よりも、最もわかりやすい授業に出て勉強するというふうになるでしょう。この場合には、極端なことを言うと、その1科目何単位に対していくらを支払うという単位授業料を主張するのは当然だと思います。
また、今の学費はもうそんなに上げることができません。この前、本学でも「今の授業料が高過ぎるのではないか、特に大学院については下げてくれ」と提案しました。本学の大学院の授業料は学部の授業料と等しいか、それより上だったのですが、大学院の授業料は戦略的にも少し下げた方がいいだろうということです。結局、来年から下げることになったのです。一方、「アメリカではもっと高い大学があるぞ」という意見もありましたが、高くても来るという別のファクターがそこにはあるはずです。こういうことを考えますと、そろそろ授業料についても抜本的に考えなくてはいけないという気がします。
人件費の抑制というのは、特に教員の場合が問題だと思います。本学の定年は70ですが、一般的には65ぐらいが限界だと思います。学生にとっては非常に迷惑な話ですが、何を言っているのかよくわからないし、古いことしか教えていない先生が時々います。学生は、ボランティアでその先生から授業を受けている訳ではありません。授業料を払って受講をしているのです。
中には本当にいい人もいることは間違いないのですが、これこそ人によります。そろそろこういうことを考えないと授業料の点からも問題が起きてくるはずです。時代への対応という点で、経営の方でもこのように考えなくてはいけない問題が多くあります。
(9)意思決定組織の改革
教授会の組織は教育・研究の自由を守るためと言われておりますが、正直に言いますと、教育・研究よりも自分自身の身と組織を守るため、あるいは情報を隠蔽するためだというふうないろいろな悪口が言われております。大義名分と実質はかなり違っているということは、皆さんご存知だと思います。これはかなり問題で、大学が時代の変化に対する対応が非常に遅いのは、ここに起因しています。確かに大学はそんなに頻繁に時代に対応することはないという意見もあります。学園紛争が盛んな頃、教授会で「学生が騒いでいるので、われわれ教員は早速対応しよう」と言う意見に対して、ある先生から「いや、何も対応しないのも一つの対応だ」という話があって、すごい見識(?)だなと感心したことがあります。確かに対応のスピードが遅すぎると思います。
(10)競争の激化
国立の独立法人化ということで大学の競争は激化すると思います。国立が私学と同じ程度の授業料を学生から取り、私学と同じ様な経営になるとしたら、私学にはノウハウがありますから絶対に有利だと思います。ところが、そうではないらしいです。やはり給料は税金で支払われるし、先生は国家公務員らしいので、あまり状況は変わらないかもしれません。ご存知のように最近、県立とか市立大学が多く出来ています。大学が多いと言われている中で、県は県で、市は市で、自分のところに大学を持ちたいということで、大学の数が非常に増えています。これは、少子化という時代の流れに逆行しているのではないかと思います。これも一つの対応の仕方なのでしょうが、早晩、困ったことになると予想されます。
短大も相当深刻な状態で、生き残り作戦を考えています。数多くある現在の大学が将来どうなるかという予想が色々あって、いちばん簡単な予想は相当数が潰れるというものです。文部省も「潰れるところはどうぞ潰れてください」と言っているという説があります。または大きい大学が吸収合併するという説もあります。私の予想では、本当にいい大学は生き残れるはずですから、吸収合併を伴いながら、棲み分けというか、自分の特色を持たせた形で存在し、お互いに協力しながら競争していくことになるだろうと思います。
4.情報技術の果たす役割
現状のサーベイに時間をとられすぎました。ここで、私の専門の情報教育に付いて触れたいと思います。
(1)情報の教育から教育の情報化へ
コンピュータの構造を教える教育やコンピュータ言語教育などは、情報の専門学科以外にはもうそんなに考える必要はないと思います。コンピュータは、すでに普及したというか一般的になってきました。コンピュータ教育は、コンピュータをどのように使うかという方が大事な時代です。コンピュータ言語教育を一生懸命やっていた当時は、文科系でもコンピュータにおける「1、0の論理回路」の授業をやっていたというひどい話がありました。ハードウエアの専門かしかコンピュータを教えられる人がいなかったからでしょう。今でもそれを主張する先生がいますが、私は意味がないと思います。当面は道具としてどう使うという情報リテラシーをやらざるを得ないと思います。更に現在、大学というのはインターネットを使って情報発信や情報収集がかなり自由な環境になっています。ですから、情報倫理、すなわち新しい情報社会における最低限必要な倫理などをしっかりと身に付けさせる必要があります。
それから、そろそろ情報技術を道具として活用する教育をしない訳にはいきません。そんなことをやる必要はないという意見がありますが、これをやることによって今までできなかったことがかなりできるようになるのです。当然、教育はフェース・トゥ・フェースが中心です。話をしている人間そのもの体温とかぬくもりとか、相手の顔色だとか、言葉の強さやニュアンスというのは非常に重要だと思いますし、教育ではそれが基本です。しかし、情報技術の中には教育の道具として利用できるものはたくさんあります。これを無視できないと思います。そういう意味で、ホームページを使って事前、事後学習が可能になりますし、一人対何人という今までの一方通行の授業のやり方ではなくて、グループになって問題を見つけて議論し発表しあう形の授業形態も可能になります。これからそういう授業が多くなるだろうと思います。それこそ創造的なことをやろうというときにはこの形が一番です。
私は長い間コンピュータ教育をやってきました。コンピュータが本当に得意な学生数人にリーダーとして授業を手伝って貰いました。質問についても、まずそのリーダーに聞き、その学生が答えられなければ私が答え、私もわからないことは残念ながら実務は院生の方が詳しいので彼らが答えるというふうにしました。このように聞きながら、教え合いながらグループ学習をしていく方がはるかに効率がいいということがわかりますし、やりがいもあります。そういう意味ではグループ学習のような勉強の仕方は、対面授業の一方通行よりはおもしろい面がたくさんあります。
先ほどお話しをした遠隔授業や遠隔学習というのもおもしろいテーマです。これからの情報機器を使った教育は、この遠隔授業や遠隔学習にある程度シフトしてくるだろうと思っていますが、遠隔学習をどうするかというのは、ある理念というか考え方をもっていないと、ただ単に右往左往するだけだと思います。
(2)キャンパスの情報化
最初にやるべきことはキャンパスの情報化です。現在、各大学でもいちばん苦心しているのはそこであり、情報環境を整備するということがホットな話題であります。
明治大学の情報環境を少しだけ説明します。最初に計算センターができまして、コンピュータ教室をつくって、そこで授業をおこないました。そのうちに学内LANという一種のネットワークをはりめぐらせ、これでインターネットを接続して世界とつなごうとか、事務の情報化をしようということになったわけです。この辺まではどこの大学でも同じ今までの動きです。また、大きい大学は最近やっていますが、衛星通信施設を皆で共同で使おうという時代です。
最近、大学でも、イントラネット、エキストラネットということが言われていますが、イントラネットというのは、例えば明治大学の中だけのインターネット、すなわちIPプロトコルという方法を利用した校内ネットワークです。そして、幾つかの大学で共同してイントラネットを相互接続をして情報通信をするのがエクストラネットと呼ばれているものです。事務も教育も研究も、現在、各大学ではイントラネット上で仕事をしようと試みています。要するに紙をなくして効率化を図ろうとしています。
さて、本学は情報コンセントを9,000個つけるという方向で、学生がどこにいてもインターネットに接続できるような環境をつくろうとしています。昔は、情報処理教室といった非常に効率が悪く、先生の顔もよく見えないところで授業をしていました。それよりもパソコンを持ってくれば、どこでも授業ができてしまう。そういう意味では全教室で情報環境が整っているという状態になると思います。明治大学は各教室とも情報コンセントにしていますけれども、5年後ぐらいには無線でも可能な時代になると思います。現在では無線は一斉に授業をしますと混雑して繋がらなくなってしまいますが、そのうちにコンセントよりも無線の時代がくると思います。
(3)教育の情報化で何が出来るか
教育そのものに情報技術を使うと何ができるのか。それは、ワープロとか表計算という高級文房具として使うことがいちばん単純です。しかし、今までのように先生一人で多数の学生を教えるのは大変なことです。演習も大変ですし、出席をとるのでさえ時間がかかり、かなりの授業時間が無駄になるわけです。よって第一は、効率化のために情報機器をうまくすると使えるということです。また、先ほど紹介したグループ学習のようにおもしろく、やる気を起こさせるためには、これをうまく使うとことが可能です。しかし、逆に下手に使うと学生が眠ってしまうということになります。私は情報機器の本当のおもしろさは、創造的学習をするための道具であると思います。
近未来の大学キャンパスはどうあるべきか。これは明らかでして、いつでも、何処でも、誰でも、自由に安心して情報接続可能な情報環境を整備するということです。すでにアメリカではこうなっている所が多く、日本も近いうちには全大学が必ずこうなります。これには背後で階層的なセキュリティの確保が必須です。このことを意識した情報環境を整備することが一番大事な発想です。 こういう発想でやらないと、何時でも、誰でも、何処でもというわけにいきません。最悪の場合には、現在良くあるような情報処理室まで行かないと使えないとか、夜は鍵が締まって使えないという話になってします。一大学内だけで整備、運用は困難な場合にはアウトソーシン(外部委託)が無難かもしれません。
明治大学の三キャンパスの研究室から24時間自由に接続できます。最近は、夜中の11時をすぎると学生は、自宅からテレホーダイで研究室に入ってきますので、ほとんどつながりません。三つのキャンパスに50台ぐらいずつ回線があるはずですが、夜の11時をすぎると満杯になってしまいます。要するに、当面は電話を使ってでも自宅からでも自由に接続できる環境というのはどうしても避けられません。大学としては最低必要なインフラだと思います。
また、すべての学生、教員、職員のパソコンは、自宅に1台、持ち歩くためにPDAという小さな携帯用の情報端末が1台、それから大学にも1台という一人3台の時代が来ると思います。「そんなに自宅用と携帯用と職場用までは必要ない」と言われるかもしれませんが、これも避けられない方向だと思います。
そして、大学におけるキャンパス内のすべての空間で、有線、無線を通じて接続できる環境が必要になってくると思います。インターネットで世界中に発信できるという環境は、これからの若い学生のためにチャンスを与えます。これを準備していない大学は責任を果していないと言っていいと思います。明治大学では、常に最新の情報施設を整えるように努力しています。しかし、セキュリティは十分に配慮している積もりですが、まだ未完成ですのでこれからさまざまな問題が起きてくる可能性があります。セキュリティ確保の為に、民間のプロバイダー経由でしか外部からの接続を認めないという方針もあり得ます。セキュリティの整備は、ある考え方をもってしっかりとしておかないといけないと思います。
一方、情報環境の管理運営としてアウトソーシングで済む時代がくると思います。こういうものはわれわれ教職員のやる問題ではなくて、最低限アウトソーシングに任せて、その上でいかに教育と研究の花を咲かせるかということに努力すべきではなかろうかと思います。
そして今後の大学において大事なのはそれ情報環境はもちろんのこと、それ以外の情報武装です。これは、情報の技術を大学でいかに教育研究にうまく使うかということです。そして、これがこれからの大学の生き残り作戦の大事なポイントになります。そのときのヒントを、私が考えた範囲内でお話したいと思います。大学というのは常に情報公開をしなければいけません。これは受験生のためだけではありません。地域の方に対しても、世界中に散らばっている卒業生に対しても、自分たち教職員に対しても情報公開をすべきです。これらはインターネットを通してするしかありません。次ぎに、授業でも情報機器を使いたいときにすぐ使える環境、状況をつくっておくことです。当面は、その支援体制の整備が重要です。更に、これからは、他大学とのコラボレーション授業を一緒にやらざるを得なくなります。一大学で全部を総括的に片づけるということは不可能だと思っています。一方でバーチャルユニバーシティとかバーチャルミュージアム、こういう動きが出ているのはご存知だと思います。他大学と協調できる体制を作ることが必要です。
最後に、情報環境は経費さえかければ誰でもできますが、大事なポイントは情報のコンテンツ(内容)です。われわれが学生に何を教えるかというと授業の内容の方がはるかに大事です。ホームページをつくったはいいけれども、その中に載せるものが何もなかったら意味がないというわけで、内容の方がはるかに大事で、その充実に心掛けるべきでしょう。
5.これからの大学の在り方
(1)常に大事な視点
情報という穴から覗いたこれからの大学のあり方ということについて、少し意見を述べさせて頂いております。これからは共生しながら競争する世界と言われています。しかし、大きな大学だけ生き残って、あとはみんな吸収されてしまうわけではありません。これだけ大学の数があって、受験者、受講者の数が限られてくるということを考えますと、特色を持たせるしか道はありません。そのときにどういう発想でいくべきかということについて、私の考えをお話させていただきたいと思います。
大学の流動化が始まったことは明らかです。今までの右肩あがりから下って来ているというのに、まだ昔の態勢で対応している大学がかなりあります。本学もそれに漏れない面がいくつかあります。私は昔からこれまでの大学は「超安定システム」であると言って来ました。大学のシステムはどう揺すっても最後は現在のパターンに必ずおさまります。学生があれだけ騒いでも、5年か10年たつとまた元のところへおさまっています。これが超安定システムの根拠です。しかし、それではもうやっていけない激動の時代がきたことは事実です。激動の時代は私学にとってはチャンスとして積極的にとらえるべきです。とても面白い時代に入ったと思っています。
そこで、ただ単に時代に対応してコロコロ動いても意味がありません。最初に「不易流行」と言いましたが、普遍のものも大事です。しかし、歴史を見てもわかるように、「時代の中にある大学」という歴史的な観点がぜひ必要です。時代と共に変わっています。両者の視点が大事です。そして根本はやはり大学は人間教育が中心ですし、フェース・トゥ・フェースの教育が基本であることは間違いありません。こういう激動の時代に大事なことは、自分の大学はどういう理念に基づいてどういう学生を育てていくのかというビジョンをもって実現に向かって動いていかないと、対応だけでくたびれてしまいます。総括的に全部に対応するのは不可能ですから、建学の精神に基づいたビジョンをもって、特色ある方向を見い出して、実現に向かってみんなで一生懸命努力していくことが大事だと思います。
(2)情報化
その中で大事なのは情報技術です。これがキーポイントで、大学は情報技術発達のために新しい時代に入ったといえます。少子化というのは大きなインパクトであるのは確かです。しかし、それよりも情報技術の発達の方が、大学の歴史を考えるともっと大事で、50年オーダーの変革が来ていると思います。そう言っても、「情報なんていうのはすぐなくなる、一種の流行で心配するな。そんなのに性急に対応するのは軽佻浮薄である」と主張する人もいます。私は、前から情報革命には根本的なものがあると主張している一人です。確かに、情報技術は道具なのですが、道具が質を変えてきている面が大きいのです。印刷技術が教育を変えてきたのと同じように、インターネット、情報技術の発達が教育の現場を根本的、質的に変えつつあるという視点が大事です。
(3)グローバル化
グローバル化に対しては、当面、今のシステムに競争原理を入れるのがいいと思いますが、現在のグローバル化は、アメリカとかヨーロッパ流の発想の下でのグローバル化だと言える面があります。ただ単にそれを追いかけてもあまりおもしろくないし、混乱を招くだけであります。日本の歴史と風土に根差した新しい「共生と競争の原理」を見い出す必要があります。日本は日本の文化や歴史がありますから、それに根付いたグローバリゼーションということが大事であります。アジア、日本にから出た理念に基づかねば本当に世界には通用しません。ただ単の追従には意味がありません。その辺の視点が極めて大事です。
(4)少子化・高齢化
教育の重視をし出しますと現在の日本では教育と研究というのは分離し始める。これは仕方がないことだと思います。大学によっては前に述べたように大学院で研究をし、学部で教育という一貫教育をやろうというストラテジーを持つところも出ています。または、教育に、特にリベラルアーツに専念している大学や、国立の中では大学院大学として研究のみの大学が出ています。もはや従来のような、総花的な展開はもう不可能だと考えた方がいいと思っています。個性化という言葉がいいかどうかわかりませんが、大学の特色を持たせた独自のアイデンティティー、特徴を訴える時代だと思います。
そういう意味では、今までは文部省のある指導の下に大学は護送船団方式で同質化されて来ました。国では多様化、個別化などと言っていますけれども、それに対して真剣に対応した大学は全体的に少ないと思います。大学のトップの方は本気で考えている人が居ても、ほとんどの教職員はそういう意識があまりなかったという気がします。しかし、これからは教育と研究という視点から類別化されていくだろうと思います。その原因は少子化、高齢化にあるわけです。
基礎教育や学習、及びリベラルアーツに一生懸命な大学には、好きなことを勉強したいというギリシャ時代のような学生が集まって来るかもしれません。極端な場合には、大学が経営上潰れても先生は無料で教え、それに対して学生が集まってくるということも有るかもかもしれません。それから、資格を得るための教育だとか、専門家を育てるための専門教育に力を入れる大学もあるかもしれません。または、研究・開発に一生懸命力を入れる大学もあるかもしれません。大きい大学ですと、大学院と学部をうまく分けたり連携したりして、いろいろな対応が可能ですが、通常の大学はこのように、いくつかに類別されることは避けられないと思います。
情報教育をやっていると、私よりも詳しい大学院生がたくさんいます。先ほどお話ししたように、院生にそのテクニックを私が教わったり、学生が私のかわりにHOW TO物を教えているということがあります。そうなると授業料は一体何だという話になります。そういう意味では、大学の役割というのはただ単に知識を教えるという機能から、学生が集まって大学の教職員と一緒にプロデュースする方向に移っていくのではなかろうかと思います。
(5)対応
先ほどお話ししたように文部省の庇護の下にわれわれ大学は甘んじて来たような気がします。これからは、社会全体が大学を評価する為に、実力、魅力、誇りといったものがないと私学はやっていけないだろうと思っています。なお、ここで、いちばん大事なのは「評価」ということです。日本人がいちばん不得意な評価というのをどううまく取り入れるか、システムとしてどう確立していくかというのが基本です。先ほど言いましたように大学の教員は評価されることは大嫌いですが、しかも平気で学生に決まりきった評価をしています。現在の入試や日常のペーパーテストはまさしくそうです。評価というのを大学の中に、日本社会の中に、如何に定着させて行くかについて本気で考えないといけません。そのためには学生からの大学や教員の評価、卒業生からの評価、学生の実力に対する社会からの評価、そういう評価というものにわれわれは本気で取り組む時代になってきたと思います。
先ほども言いましたが、流動化の時代は私学にとってチャンスです。私は本学で「今の波に乗っては二番煎じになるだけだから、もう一つ先の時代の波に乗れ」と言っています。情報化に対しても、二、三十年前から「早く対応した方がいい」と申し上げていたのです。今はどういう時代なのかというと、対応の柔軟さと広さとスピードが鍵です。特に、スピードです。そのためには、とにかくふらふら変わればいいというのではなくて、先ほど言ったように建学の精神とか理念に基づくビジョンが必要です。ビジョンが明確ですから、その中でだめなものはだめ、いいものはいいと評価ができます。そして、いいものは伸ばしていくし、だめなものは削って別のことに挑戦してみることです。
ジェネティック・アルゴリズム(GA)という研究分野があります。地球上で生物が生き残るための戦略は何か。現在は人間が大きな顔をしていますけれども、ゴキブリは何十万年も生きています。いろいろな生物が人間よりは遥かに長く生きています。遺伝子が生き残るためにいろいろなパターンをつくって、氷河期がきても、地震がきても、隕石が落ちても生き永らえることができるように、遺伝子を変化させ、進化させ、多様化させて、ついにウイルスから人間まで、各種の生物を作り出したというのがGAの発想です。
そして、その時代にあったように生き残る生物は生き残って、だめな生物は死んでいきます。有性生殖とは、遺伝子を半分ずつ出し合って、いいものはいいもの同士で子孫を作ろうとすることです。また、従来にないパターンを作り出そうという発想です。このように新しいものに対応するためのテクニックが今の遺伝子の中に組み込まれています。そういうアイデアをコンピュータで実現しようといろいろなことをやってみると、面白いことがたくさんわかります。常に決まりきったことだけではなくて、ある価値観をもって、いろいろなことをやってみて、試みに進んでいくという発想がこの激動の時代では必要だと思います。結果の多様性を認めるということです。
6.まとめ
(1)基本理念
結局、大事なことは機会の平等という哲学だろうと思います。今、日本の場合はほとんど結果の平等です。教育もすべて同じレベルですから結果的に同じものを出そうという発想です。そうではなくて、だめなものは落ちても構わないけれども、チャンスは平等に与えようということです。機会の平等というのが基本理念にまずあるというのが大事だと思います。これが現実で、その中から弱者を如何に皆で助けるかという発想が生まれるのだと思います。
(2)その為の手法
その為の手法として、特色ある教育を各大学によって決めて充実させるべきでしょう。本学は明治大学としての学長の意見があるはずです。私は私なりの意見を持っています。例えば、情報公開、評価、その他やるべきことは多いのですが、やった者はやったなりのメリットがあるように、そこにインセンティブを組み込まない限り現在の大学は動きません。これはいろいろ試してみてわかりました。
(3)大学としての戦略
大学間の協調についてですが、ほとんどの私学間の情報システムは共通です。特に私が知る限りでは、事務のシステムについては同じです。各大学がそれぞれのコンピュータを持って、同じように事務処理をする必要はありません。どこかの第三者機関や会社にアウトソーシングを任せて、あとは自分の必要なところだけ工夫すればいいと思います。そう考えますと、事務処理のほとんどはアウトソーシングで済むという時代が来ると思っています。ですから事務の基盤を全国的に標準化して、その上でどうやって各大学の学風を伸ばすかという発想がこれからは必要です。協調の上の競争です。これなどは情報機器が発達したからこそできることです。
それから教育のシステムも、基本的なモジュールはみんなで共同開発しながら共有することができると思います。各大学で共同開発したモジュールをどう組合せて個性を出すかは、各大学の教員の力量だと思いますが、そのコンテンツなど基本的なものをみんなが別々に開発するとしたら大変なことになってしまいます。ですから自分の得意なものをみんなで出しあい、どこかにプールしておいて、みんなで使いあうことがいい方法です。そのためにはいくつかの大学が共同で分担教育をする時代が来るというふうに思います。
このように各大学は協調の上で特色を持たざるを得ないだろうと思います。つまり、大学として戦略を持つということであります。
(4)明治大学における情報の戦略
私は情報に携わって来ましたから、本学の情報の戦略をどういうふうにして来たかということを紹介いたします。まずは情報環境の整備をいたしました。次に学生とか先生にどうやってそれに慣れてもらうかという実験をやりました。それが終わって大体使えるという目途がついたので、やっとコンテンツの充実を図ることにいたしました。一つ先の波に乗れということはそういうことです。狙うのは、情報環境の次ぎの情報コンテンツの充実です。大学はコンテンツを持っていることが重要です。本学もこれからの情報内容に関しては力を注ぐつもりです。なぜなら、大学のキャンパスという場は、人間と情報の出会う場であるからです。ここお茶の水は人間が集まりやすい場所です。「情報」と「知」を求めて人が集まります。われわれは、この御茶ノ水校舎を御茶ノ水カルチェラタンと呼びたいと思います。明治大学を中心にここを日本のカルチェラタンにしたいと思っているわけであります。情報の方は物理的に動く必要はなくて、電子的に動きますから、これを最大限利用しようと思っています。
(5)当面のキーワード
時間がないので簡単に纏めます。情報から見た当面のキーワードは何かというと、何回も言いますけれども、インターネットの利用と大学のデジタル化です。この2点についての対応のスピードを早くすることです。実際にそれらを実施ときは若い人に任せることが大事です。申し訳ないのですが、ある年齢以上の人には難しい面が多々あります。監督職という立場ではいいのですが、実際は若い人に任せて動いてもらうということが大事だと思います。
ご静聴ありがとうございました。
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(むかいどのまさお)