「FUZZYの思想」
Fuzzy as a Phi1osophy
向殿政男
(日本景観学会理事、元ファジィ学会長、明治大学理工学部教授)
Masao Mukaidono
―――――――――――――――――
(注)この講演は,2000年11月明治大学で開催された第2回日本景観学会大会講演会で,特別講演―景観とは何か―において,黒川紀章日本景観学会長の「共生の思想」に引き続き行なわれたものであり,日本景観学会誌,Vol.2,NO.1,pp.12—20,2001-3, に掲載されたものを転載したものである。
――――――――――――――――
ただいまご紹介いただきました向殿といいます。
きょうは「FUZZYの思想」ということでお話をさせていただきたいと思います。ただいまの黒川会長の深く大きいお話に比べたら、私のは拙い話ですけど、ファジィというのはどういう発想であるかということをお話しさせていただきたいと思います。
ファジィは「景観」「共生」と非常に深く関係しているということが、今のお話で大変よくわかりました。日本語では、ファジィというのは「曖昧」と訳す場合が多いので、ファジィ理論は当初は「曖昧理論」といっていたのですけど、これは一般のイメージがあまりよくありませんでした。例えば、大学で出張するときに「曖昧研究会」と出張届けを出したら、事務長から「もうちょっと真面目に出しなさい」と怒られてしまいました。「そういう名前なんだから仕方がない」と申し上げたのですが、曖昧というのがよくないのですね。日本語の「いいかげん」だとか「適当」だとか、そういう意味に捉えますけど、よく考えてみると、いいかげんというのは、実は“良い加減"のところを意味しているのですね。丁度バランスの良い加減のところというのが便利で、みんな安易に使うから“いいかげん"になってしまったのではないかと思います。
「曖昧」というのは、よく考えてみると非常に深い意味があるのですけど、最初は「曖昧」という言葉をつかったために誤解が多かったので、遂に「ファジィ」という言葉を使おうということになりました。日本ファジィ学会というのを、ちょうど景観学会と同じように11年ぐらい前に我々が中心になって作りました。当初は、非難も多かったです。ところが、ちょっと経つとファジィブームが起きまして、だれでもファジィという言葉をつかうようになりまして、辞書にもファジィという言葉が載るようになってから、やっと認められました。英語で「FUZZY」と書きますが、ほとんどの人は“フジイ"と読んでおりまして、それまでは入試にも出てこないような英語だったのです。
これはアメリカでも評判が良くない。ファジィというのは、本当の意味は、ふわふわとして羽毛のように境界がよくわからない、境界が不明確だというか、曖昧であるという意味なのですけど、アメリカ人にとってもファジィというのはあまりいい言葉ではないらしいのです。私がファジィ論理の研究でアメリカに留学したときに、アメリカに長い間いるわけですから、ちゃんとビザと一緒に証明書も持って行くのです。そこに専門「Fuzzy logic」と書いてあるわけです。そうしますと、入関のときに「おまえ、おかしいんじゃないか。Fuzzyというのは曖昧、logicというのは明確、Fuzzy logicというのは矛盾だ」「Fuzzyという用語は不要である」というわけです。こんな矛盾なのを勉強しに行くのかと、これはアメリカに入るときの入関の男の人が冗談で言った言葉です。それがまた後で用事があってイギリスヘ行って、イギリスから帰ってくる時に、またアメリカの入関で、今度は女性の人につかまりまして「Fuzzy」という用語は不要じゃないかと言うのです。その女性は何と言ったかというと、「女性にとってlogicは常に曖昧である。曖昧なものに曖昧なんて形容詞はいらないから、Fuzzyを取っ払へ」と言うのです(笑)。そういうふうに、いろいろ揶揄されてというか、冗談を受けながら、このファジィ理論というのをやってきたのですけど、きょうは、ファジィの考え方をちょっとお話をさせていただきたいと思います。
いまお話したように、ファジィというのはもともと曖昧という意味で、「1」か「0」かという極端ではなくて“真ん中へんのところ"という意味があります。従来の理論は、イエスかノーかです。コンピュータも、イエスかノーかであります。私もコンピュータをやっていますので、コンピュータの世界と、僕らの主観だとか、直感だとか、感性だとかいう世界とのギャップに実は悩んでいるのです。「0」「1」のコンピュータで我々の感性などをどうやって取り扱うかというのは、非常に難しい問題です。コンピュータのイエスかノーかに対して、0と1の中問の0.2とか、0.3とか、あいだをちゃんと認めたほうがいいのではないかというのが、ファジィのもともとの発想であります。
ワインでいうと、赤か白かといったときに、私はロゼだと言ってもいいようなものです。仕方がないからロゼだというのではないのですね。この真ん中が好きなんだ、そこに本当の面白さがあるのだ、ということを言いたいわけであります。
もうちょっと極端に激しいことを言いますと、世の中の現象の多くは合理的に割り切れるものではない。イエスかノーかでは片づかない。要するに、世の中に原理があって、その原理で動いているなんということはほとんどない。ぐじゃぐじゃしてあいまいで、澤然一体となった、融合したものが、実は実態なのだ。それをどう理解するかというので、人間はかってに理論をつくってみたり、文法をつくってみたり、いろいろやっている。それは近似であって、本当の正解は、あるがままの融合した中間のところが実態なのである。それに対して、しょうがない、理論として我々は学問体系をつくるために、近似的にイエスかノーかで割り切り、合理的に話し合おうとする。ですから、合理的に片づけるのは、あれは近似であって、我々の曖昧な世界が本質ですよ、というところから出発しています。
ところが、数学とか物理をやっている人は、とんでもないと言います。ちゃんと世の中に原理があって、原理で全部説明がつくはずだ。説明をするのが面倒くさかったり、原理がわからなかったり、複雑すぎて大変だから、適当に近似でやりましょうというのが、曖昧という発想であると言うのです。ですから、科学技術からいうと、曖昧というのは憎むべき状態でして、とにかく明確にすることが重要である。明確にすることが、学問の目的である。従って、曖昧なまま放っておく、お前の曖昧ロジックとか、曖昧理論というのは、自己矛盾であって、学問に対して、ある意味では反旗を翻しているのだと怒られるわけです。これが、最初に「曖昧理論」と言ったときに、学会などでみんなから非難された最大の理由です。科学技術というのは、明解にすることが目的なのに、曖昧な状態を認めて、それで理論と言っているのはおかしい、自己矛盾を冒すなという、そういう非難です。
私のほうから言わせると、そうではない。世の中は、実は曖昧であって、曖昧なものをちゃんと認めよう。認めたときに、それを皆で話し合い、議論する態度はちゃんと合理的にしましょう。研究対象の実態はあいまいであって、それを「0」「1」で割り切って片づけましょうという、その態度こそおかしいのだと、そういうふうな話をだいぶやってきたわけです。そして、先ほどお話しましたように日本ファジィ学会ができて11年目ですけれども、やっと認知されるようになりました。
皆さんのご家庭の家電製品の中で、ファジィ理論を使ってない製品はほとんどありません。メーカーは現在はファジィという言葉を使いませんけど、洗濯機から、テレビから何から、ほとんどファジィが今入っています。なぜか、これはあとでゆっくりお話しますけれども、ファジィの発想を使いますと、高度な電気製品が、非常に簡単に、やさしくつくれる、安くつくれる、というメリットがあります。なぜかというと、そんなに正確に厳密にやったって意味がないじゃないかというのが、実はあるのです。
例えば、空調の温度をきれいに制御しようとして、0.1度まで正確に制御しようと思っても、人間の感覚はそんな厳密にわからないわけです。外から入って来たときに、暑いと言うかもしれないし、中にいる人は寒いと言うかもしれないし、それは主観によっても違うし、状態によっても違う。そう考えると、人間にとって大事なのは、今の自分にとってどういう感じかということであって、絶対何度という世界で我々は生きているわけではない。0.1度が重要だという世界で生きているわけではないので、そんなに厳密にすることはないというのが実情であります。そんないろいろな理由があって、ファジィというのがやっと利用されるようになって、工学的に相当利用範囲が広くなって来ています。
一番有名なのは、10年ぐらい前ですけど仙台の地下鉄というのがありました。この話だけちょっとしておきたいと思うのですけど、地下鉄というのは、電車は全部そうですが、ブレーキをかけるときに、プロの運転手はどうやってかけるかというと、きょうはお客がたくさん乗っているなというときは、ちょっと早めにブレーキをかける。ブレーキがかかりにくいからです。それから、下り坂でスピードが出ちゃっても、ちょっと先は上り坂だから、今ブレーキをかける必要はない。そのうち上り坂でゆっくりなるから、そのまま放っておけばいい。そういういろんなアイディアを使いながらスムーズに運転して、駅ではきれいに止めている。ところが、これを機械のコントロールにするとどうなるかというと、運転パターンの理想形があって、この理想のとおりに運転しなさいということになる。そうしますと、お客が多くても少なくても、同じスピードでバーッと出ようとする。大勢乗っているときはブレーキがきかないから、止まるときはキキキーッと急ブレーキみたいな形になるし、出るときはドーンと出たりするわけです。それから、雨のときはブレーキの効きが悪いとか、いろいろなことがあるわけです。そういうことをプロの運転手は考えながらきれいに運転をしている。
そのときファジィ理論ではどうやったかといいますと、プロの運転手に「どうやって運転しているのですか」というのを、まず聞くのです。いま言ったように、この駅とこの駅の間には坂が2か所ぐらいあって、このときはブレーキはかける必要ないのだということを知っている。ところが、パターンをきめて、このとおり運転しろと言われますと、下り坂になると相当スピードが出ますから、平均値に乗せようと思ってブレーキをかける。上り坂になったら足りなくなるから、今度はアクセルを踏む。ということになって、ブレーキを踏んだり、アクセルを踏んだり、がたがたがたがた。燃費も良くないということが起きる。プロはそんなことやってない。そういうプロの話を聞くと、実は、プロの言葉というのは、かなり曖昧なのです。「ちょっと左カーブのときは」といっても、左カーブって半径何mですかなんていうことを聞かないのですね。ちっょと左カーブがきついときはとか、お客が非常に多いときはこうだ、少ないときはこうだと。何人だとか、何kgなんて聞かないわけです。それでちゃんとプロの運転手はわかるわけです。ところが、コンピュータに乗せようと思うと「大勢」なんという言葉は使えないわけです。何人とか、何kgとか、カーブが激しいといったときは、半径何mをもって激しいというか、ということをちゃんと定義しないと、コンピュータに乗っからないのです。ここで当然矛盾が起きるのです。これを解決したのがファジィ理論です。運転手が「きょうはお客が多いよ」とか、「カーブが激しい」とかいったときに、それを何とかコンピュータに乗せようといったときにファジィ理論が使えたのです。お陰で、乗心地も良くなり、燃費も少なくなり、より正確な位置に止まるようになりました。
ファジィ理論というのを簡単に説明しますと、例えば「中年」という言葉をとってみますと、「中年」というのは何歳から始まって何歳で終わると思いますか。「老人」というのは、65歳から老人ときめるというふうに国連の統計に書いてあるという話ですけど、感覚は実は人によって違っています。私は中年かというと、まあ自分自身は中年に当然入ったなと思っていますけど、私の先輩にこの前会って「先輩もそろそろ中年終わりですね」と言ったら、「ふざけるな。今、俺は中年の真っ只中だ」と言う。それと同じようなことで、昔「老人」というカーブを僕はかいてみました。「老人というのは、60から70ぐらいから始まるんです」と言ったら、私の隣の室の教授は、その人はちょうど70の定年のときでして、「ふざけるな。老人というのは80から90をいうんだ」と。人によって違うのです。中学生に聞いたら「25はオバサンだ」と言う人もいますしね。
そうすると、どう考えるかというと、人間というのは、中年か中年じゃないかどちらかというのがそもそも間違っている。我々「中年」といったら、だいたい中年というイメージは確かにもっているけど、中年が35から始まるのだとすると、34歳の最後の日まで中年でなくて、一晩のうちに途端に中年になってしまうという話に、厳密にいうとなるのですね。コンピュータでやると、それが実は起きるわけです。一晩で中年という話になっちゃうのです。そんなバカなことあるか。我々しゃべっているときに、途端に「きのうから、私、中年になました」なんという奴はいないんですね。そう考えますと、中年に度合いをつけようという話になって、35歳は中年の度合いは0.3だ、40歳で中年の度合い0.8だというふうにする。40歳は中年の度合い0.8ということは、40歳は中年ですか、中年でありませんか、イエスかノーかといったときに、どっちでもないという話になるわけです。ということは、イエスでもノーでもない途中の世界をファジィ理論は認めたことになるのです。
ここが重要でして、従来の数学の理論はすべて、イエスかノーかで片づけますから、ある人は中年か中年でないか、どちらかだった。これはほとんどの人が認めている二値の原理です。普通の杜会ではあまり関係ないかもしれませんけど、理論ではみんなこれを認めているのです。ですから、火星に生物がいるか、いないか、どちらかだ。これ絶対間違いない。行ってなくてもわかっているというわけです。ところが現実には、行ってみたら、生物というべきか、生物というべきじゃないか分からないものがいた場合どうするか、という話と同じことが起こり得るのです。我々ファジィ論者が途中の度合いを認めた。要するに、中年の度合いがO.3ですとか、0.8だと認めたということは、中年であるか中年でないか、イエスかノーかという二値論理をそこで拒否したことになるのです。ここが従来の科学技術屋さんとファジィ論者はぶつかるのです。イエスかノーかを決められないで、どうして理論が出来上がるのかというわけです。だけど、いまの中年の定義だけでもおわかりでしょう。イエスかノーかでないことが起こり得るのです。途中を認めたということは、灰色を認めたわけですから、灰色を認めたということは、実はイエスかノーかで片づかない世界があるということを認めたということになるわけです。
境界が曖昧で、30歳は0.3で中年ですよといったら、O.3というのは、イエス(1)でもなければノー(0)でもない。ある意味では30点という意味です。そういう言い方だったら、我々はしょっちゅう使っています。あいつは60点ですよ、90点ですよ、よくできるから100点ですよと。ところが、卒業の場合、卒業か卒業でないか、どちらかで、あいつは大学を0.3で卒業しましたというのはないわけです(笑)。どこかでばさっと切って、イエスかノーかにしている。しかし、現実はみんな途中に度合いがある。それを我々の世界でエイッヤーと切って、はい卒業、あんたはダメもう1年、こういう話になっている。便宜上やっているにすぎない。本来は、人問というのは、能力も何もいろんなバラエティに富んでいて、たまたま点数を用いて、足していいかどうか分かりませんが、足し算をしてみて、何点に達しないと落ちるということを平気でやっている。それは便宜上であって、実際は途中の度合いがあるはずです。それがファジィ理論を提唱した最初の理由です。
こんな簡単な考え方は、たぶんギリシャ時代からあったはずでありますけど、それを学問の世界に提案して、こういう発想で物をつくると、あの「O」「1」のコンピュータを使ってさえも、人聞に便利なものができますよという例を示したというのが、実はlO数年前のファジィ理論が世の中にブームになっていった一つの理由です。
ファジィ理論というのは、ザデーというアメリカにいる人が言いだしたのですけど、この発想の中には、どうしても東洋的な臭いがするのです。イエスかノーかは認めてはいる。でも、その中問もあるのですよということを認めたということは、何となく東洋的な発想がないわけではない。ザデーというのは実はイラン人でありまして、中近東の人間なのです。西洋と東洋の中間、両方のあいだにいたような人が考えだしたということであれば、納得いくような気がいたします。
しかし、ファジィ理論を世界に広めたのは日本です。日本がその応用を見つけて、このファジィの発想でものを動かしますと、非常にうまくものが動きますよということを示したのが、10数年前です。これまで、日本ファジィ学会が世界を引っ張ってきましたけど、世界的にファジィ理論というのは盛り上がりはじめまして、残念ながら日本よりもアメリカ、ヨーロッパのほうが盛んになりはじめたというのが、現実にはあります。しかし、アプリケーションでは、まだ日本が世界を引っ張っている状況です。
一つだけ例をお話しますと、これもだいぶ前で、テレビで放送した例ですけど、お酒をつくる、醸造、発酵という過程があります。ご存じのように杜氏(とうじ)さんという人が居まして、一生懸命お米を混ぜたり、温度を冷やしたり、かき混ぜたり、色を見ながら、匂いをみながら、温度管理をして、醸造、発酵の過程をずっと制御しています。あれは問違いなくプロです。新潟の人が多かったと聞いていますけど、農閑期に出てきて、杜氏さんが一生懸命お酒をつくっている。そのときのお酒の最初の発酵過程というのは非常に難しいのです。お米もあるし、水もありますけど、杜氏さんの努力によって、お酒の味というのはだいぶ違うらしいのです。
発酵の過程をずっと制御して、一晩中寝ないで見ていろいろやっているのだそうですけど、あれは相当きついらしいのです。若い人が継がなくなってきた。今の杜氏さんが亡くなったら、日本の美味しいお酒をつくる人がいなくなっちゃうのじゃないかという心配が、一方でありまして、これはいかんと。醸造、発酵の専門家を呼んで、過程を全部コンピュータ・コントロールしよう、機械コントロールしようというふうに始まったわけです。それでやってみたら、ちっともうまくいかない。みんなやりすぎて酸っぱくなっちゃったり、できなかったりで、機械ではなかなかうまく制御できない。
それで杜氏さんのある人が、ファジィ理論というのが最近あるらしいから、ちょっと聞いてみたらどうだということになりました。我々が行って杜氏さんに話を聞いたのです。どうやってやっているんですかと言ったら、実にすごいんです。「色を見て、ちょっと黄色みがかって、匂いがプーンとしてきたら、水道の栓をちょっとして、ちょろちょろと水を流して、こうやって冷やせ」と言うのです。ちょろちょろと水を流すとは何ですかというと、このぐらいがちょろちょろだ、これは行き過ぎた、と言うのです。こういうノウハウというのは、コンピュータに乗せられないわけです。でも、“ちょろちょろ"とか、“非常に熱くなったら"とか、“黄色くなったら"というのは、これは完全に言葉です。その言葉の意味は何かといったときに、実は“黄色い"なんて境界はないんです。ここから黄色でここから緑だなんというのではなくて、徐々に黄色になって、徐々に最後に紫か何か別に移っていく。そういう構造になっているはずであります。“熱い"だとか、水が“ちょろちょろ"なんというのも、実は曖昧なのです。そのときファジィ理論を使いまして、実際に水を流してもらって、「これ、ちょろちょろですか」と聞くと、これは明らかにちょろちょろ、ここは少し行き過ぎ0.8、ここは行き過ぎ0。この量は0.3ぐらいでちょろちょろだ、というふうに横軸に水の量をとってカーブを描いてもらうのです。それで杜氏さんから、非常に温かいときはちょろちょろ水を流せというようなルールを聞いて、コンピュータに乗せますと、これが実にうまくいくのです。
これは何を意味するかというと、人間の感性みたいな、言葉で表現した内容というのは、イエス、ノーでは片がつかない。その言葉に含まれている内容、意味を、コンピュータに乗せるためには、イエス、ノー以外のやり方、途中の度合いを認めるようなやり方で、しかもその杜氏さんの主観も認める。私はこう思う、私のちょろちょろはこうだというその人の主観をちゃんと認めた形でコンピュータに乗せますと、エキスパート・システムというのですけれども、専門家のやっているとおりにコンピュータがやるということが分かって、やっと今のお酒のかなりの部分はファジィ制御できるようになりました。実際いくつかの酒造メーカでは、ファジィコントロールでお酒をつくってます。そんなことがありまして、非常にうまく応用ができたわけです。
そこで、きょうは、そのファジィの発想はどこから来て、どういう考えなのかということを「ファジィの思想」ということでお話をさせていただきたいと思います。その前に、私がなぜファジィをやりはじめたかという話からさせていただきたいのですけど、私は、年代的にみると日本でコンピュータが流行りだしたというか、やっと大学で使える頃に大学に残りました。私は、マスターコースのときはじめて大型コンピュータというのを使わせてもらったのです。当時は機械語というやつを使ったのですけど、すべて「1」「0」です。ちょっと問違えると全部だめになっちゃう。そういう世界でコンピュータをずっとやっていたのだけど、どうもピンとこないのですね。確かに面白い。いろんなことができる。しかし、ちょっと問違えるととんでもないことが起きちゃう。例えば、これは合っているか、美しいか美しくないか、というアンケートをとった場合、美しいか美しくないかなんて人によって違うのです。途中の度合いだってあるはずです。それをイエスかノーか分からないので、しょうがないからちょっと薄く塗ってマークカードを出したとします。コンピュータはどう判断かるかというと、たぶんどこかで識別してばさっとイエスかノーかどっちかに決めちゃうわけです。コンピュータの入力は、根本的にはイエスかノーかしかないのです。そのとき灰色に薄く塗ったなんて全然認めてくれない。ということは、これはどうも合っていそうだとか、私はどちらかというと好きだなんということは、コンピュータに直接入力できない状態に根本的にはなっているのです。それが、どうも何となく面白くない。
その次に私はすぐに大学院のドクターの頃、鉄道の信号の研究をやったのです。鉄道の信号というのは、「赤だ、止まれ」「青だ、オッケーですよ」。赤と青だけかと思ったら、黄色というのがあるわけです。「黄色だ、注意しろ」と、どこから注意なのか。更に、電源が全部消えちゃった場合はどうするのか。信号は電源がなくて何もついてない。これは赤なのか、青なのか、黄色なのか、何も分からない。というふうに考えてみますと、世の中で、青か赤かなんて言っているけど、実はそれ以外があるはずだ。そうしますと、イエスかノーかではなくて、それ以外があってもいいのだ。それ以外というのは何かというと少なくとも「わからない」とか、「知らない」とか、「ちょうど真ん中だ」とか、そういうロジックがあっていいのではないかというので、まず私は三値論理というのをやったのです。
「イエス」か「ノー」か「真ん中」。3番目の値を2分の1とし、ちょうど真ん中だという意味でもあるし、分からない、まだ未決定という意味を持たせる。だから最低三値はほしいなと。このように、イエス、ノーで片づけるのは、ちょっとひどいのじゃないかというところから、実は私はファジィ論理に入っていったのです。イエスかノーか真ん中といったときに、更に0.2,0.3とあってもいいだろうというので、連続濃度のロジックというのが出てきまして、それがファジィ論理という話になって、ファジィに入っていったというのであります。ですから、私のファジィ論理に入っていった基本というのは、特に人間が関与しているときに、イエスかノーかでばさっと片づけるのは、ちょっとひどすぎやしませんかということなのです。それは実社会ではあたりまえで、我々は「ファジィ理論」というのを言いだしたわけです。
さっき言いましたように、理工系の人間や技術系の人間は、特に理学の人間は、イエスかノーかにきまっている、必ず正解はあるはずだ、神はいるはずだ、神は正解を知っているはずだ、それに対して、イエスかノーか分からないと途中で止めておくのは、科学者としての怠慢だろうと言いましたけど、そういうふうに非難する人がいるかと思うと、社会科学の人間に、こういうのはよく分からない、曖昧なものはどうしましょうというと、世の中に曖昧があるのはあたりまえで、そういうのは放っておきなさいとか、そのままやっても構いませんよ、と言うのです。人文系の人や小説や何かを書いている人は、曖昧だから面白いので、曖昧でないものは世の中にないのだと言うのです。曖昧で我々は食っているのだというふうに(笑)、小説家などは言うわけです。曖昧でふやふやとしたところから面白いものが出てくるのだと。人間というのは、育った社会によって違うのかもしれませんけど、私が育った理工系から見ると、おまえのやっていることはけしからんと言ったのだけど、ちょっと分野が違うと、それは当然だという世界になっている。
そう考えますと、ファジィという発想は、理工系から出たのだけれども、この考え方は、もしかして全てに通用するのではなかろうかというのが、実はファジィ理論を本気でやる気になった理由です。いまの「共生」の話と「景観」の話というのを考えてみますと、非常に共通点があるということがよく分かります。例えば、イエスかノーかといった異なった物があるとき、この対立するのを解決する方法は幾つかあるのです。一番単純なのは、足して2で割って真ん中をとる。両方とも不満が残るかもしれないけど、日本が一番得意な曖昧にしておいて、真ん中をばさっと取るというのが一つの解決方法です。もう一つあります。それは、イエスかノーかを、そのまま存在することは認めるけど、それだけでは片がつかないので、対立点を含んだもうちょっと高い立場で両方が認め合うような案を出す。しかし、その場合は、厳密にいったら必ずぶつかります。だから、ちょっと曖昧にして、解釈のある余地があるようにし、ある意味では概念的なことにしておいて、包括的な案を作って、そして両者が自分なりに解決して納得する。こういう2つを包含して、両方を含んだような概念を作りだす。そのかわり、その概念というのは曖昧になります。あまり厳密にすると、どっちかにぶつかりますからね。共産党と自民党をくっつけるためにはどうしたらいいかという発想とよく似ているところがあります。両方を認めるような、両方から解釈できるような、非常に緩い、ファジィが、解釈の余地がたくさんあるような、境界不明確な、曖昧なもので抑えるというのが、一つの手です。
ある意味では、発見の方法とも同じなのです。全然違ったものから何か新しいものを見つけようといったときは、これとこれを足して2で割れば、またへんなものができるという考えもできるし、これとこれの両方のいいところを取って新しくつくっちゃおうという、ある意味で融合というような概念もあるはずです。そういうふうに違ったものを、どうやって一つにまとめるかといったときのアイディアに、ファジィの発想が当然使えるわけです。
先ほど黒川会長のお話にあったように、対立して、そのままで相いれないといったときは、本当にそんなに厳密にイエスと言えるのですか、世の中はそんなにイエスというものだけですかというふうに問いなおす。イエスと言った人間は他を認めないで排除しろと言う。ノーはノーで、我々はこれを主張する、そっちは認めないといったときに、はじめて喧嘩が始まるわけですが、実は、そんなに明確に世の中分けられなくて、0.8ぐらい、0.7ぐらい、中間の度合いがあるでしょう。足して2で割ったように“丁度いい加減"というところを探して、落とし所をきめるという手があるはずだ。これが一つのファジィ理論の発想だというふうに考えますと、これは我々しょっちゅうふだんやっていることなのです。もう一つの高い立場から包括するという考え方も同様に利用できます。
この発想をコンピュータという「0」と「1」の世界に持ち込んでちゃんとアプリケーションという世界で役に立ったということを見せたところに、ファジィ理論の面白さがあったというふうに、私は思います。このファジィという思想、考え方、これは先ほどの「共生」という概念からいうと、非常に小さい一つの例かもしれませんけど、我々は理工系でモノをつくっていくというハードウエアの立場の人間が、やはりこれはおかしい、何とか人間との協調点を探そうといったときに出てきた一つの解決案です。
理工系というちゃんと足を地につけてモノをつくって役に立たなければいけないという世界から見ても、ファジィ的な発想でつくると非常にいいものができるということが分かりました。社会科学では当然だと言っているけど、当然という中で、このファジィの曖昧な領域、中間の領域、丁度いい領域というのを、ちゃんと真面目に議論する価値はあるのではないか。これは、確率であって、いいとも悪いとも言えませんよといって放っぽっておくよりは、そこはそこで研究する価値があるのではなかろうか。そこには、人文系のほうでいう、曖昧だからこそ面白い、曖昧だからこそものは動くとか、いろいろな面白い解釈があるのではないだろうか。曖昧さのよさ、問のよさ、というのをお互いに理解しあって、利用し合うところがあるのではなかろうかと考えて、これは「ファジィの思想」ということで確立する価値があるのではなかろうかというのが、私の提案であります。
いくつかファジィの思想の中で面白そうな考え方を挙げてみますと、私の今までのお話にありましたように、一番の発想は、曖昧なものが本質であるという世界があるということを認めようということです。それは、私たちの感性、気持ち、主観、それから実社会で起きているいろいろなものをバサッと切れるかというと、概念的にだいたいまとめることはできても、境界はバサッといかない。その概念に名前をつけた途端に明確になってきて、それでバサッと切っちゃうというのが世の中の動きなのですけど、実は本質は切れなくて、切るということは近似である。曖昧なものや境界が不明確なものは、我々の概念や考え方の基本ですよということを、まず認めようということです。日常言語はその典型です。そういう立場からもう一度工学を見直そう。従来の数学でがっちり微分方程式ですべて片がつくという物理の世界は、それですむかもしれませんが、実社会はそうではないところがあって、そこに重点を置いた場合は違った考え方が必要だ。ですから、還元論的に下からずっと積み上げていくのではなくて、大雑把にバサッとつかんで、トップダウンでものを考えようという発想があるのではなかろうか。これが第1点であります。
もう一つは、個別を一つ一つ追いかけていったのでは個別の理論がたくさんできて、にっちもさっちもいかない。木をいくら見ても森が見えないのと同じように、あまり細かいことを追いかけていくと本質から離れますよ。それよりも大きく大局的に見ること。きちっと決めるのではなくて、境界を曖昧に押さえることが、実は本質をつかむことですよということがあり得る。
ファジィを提唱したザデーという人がいいだした言葉に「インコパンチビリティの原理(不適合性原理)」というのがあります。これは何かといいますと、我々人問にとって、ものを分かろうと思ったときに、細かくすればするほど分かりづらくなる。そして、あまり大雑把なことを言うと細かいことが消えていく。というわけで、我々が理解するときに、適切な細かさがあるのだという提案です。あまり粗っぽいとよく分からない。しかし、細かくいけばいくほど本質から離れてしまって、何を言っているのか分からなくなる。例えば「このコンピュータの使い方は、このマニュアルに全部書いてあります。どうぞ」と言われても、これを全部読んでやるのは大変だ。それよりも、まずこことこれを押せばこれができますよ、という具合に簡単に大雑把に最初は教えたほうがいいというのと同じであります。その人に応じて違うかもしれませんけど、分かりやすさのレベルというのは、丁度いい加減のところがあって、厳密にすればするほどいいという従来の発想は根本的に問違っています、というのがザデーが言った「不適合性の原理」です。これが、もう一つのファジィの思想の中にあります。
大雑把にある程度の正確さでつかんで物事を表現したり話したりするほうがいい。細かくすればするほど分からなくなってしまう。といって、あまり粗っぽすぎても、実は本質がつかめない。ということで、物事を伝えるためには、丁度いい大きさがありますよというのが、2つ目の解釈であります。
もう一つは、これはミクロとマクロをつなげる橋渡しをしていることです。先ほど「中年」と言いましたが、中年という概念は、皆さん一応それなりに持っている。だいたい意味は分かる。何歳から何歳ぐらいで、こんな分布ですよというイメージをみんな持っているけど、ピタリ何歳だと一つがきまるわけではない。ということは、中年という概念は幅をもっている。しかし、境界は曖昧である。中年という概念に対して、もっと厳密に中年を定義しようとするとどうなるかというと、この人の皺の数がどのぐらいで、髪の毛はどのぐらい薄くなって、てなことを厳密に定義しなければいけない。私みたいな髪の薄いやつの禿の定義をしようとすると、じゃ禿は何をもって禿とするか。1万本から以下は禿だとしたら、1万1本は禿でなくて、1万から1本抜けたら途端に禿になっちゃうという話と同じになっちゃう(笑)。面積でもって、何uに何本以下を禿というなんて言ってみても、ほとんど意味がないわけです。禿と同様に中年という概念はちゃんとある。それに対して、本当は細かいことがあるかもしれないけど、そういう細かいことは無視して大雑把につかむという第2の原理と同じようなことが、実は物理の世界にもあります。
それから統計学がそうなんです。例えば、この空間には空気の分子がものすごい数飛んでいます。空気の分子はそれぞれあっちいったりこっちいったりして動いているわけです。動いているけど、たまたま空気の分子が同時に四方八方へ離れる方向にもし動いたとすると、途端にその真ん中に真空ができるはずです。そうすると生物は死んじゃうわけです。実際にはそんなばかなことはない。なぜかというと、ばたばたランダムに動いているから。
何かの本に書いてありましたが、たしか野球で、外野のフェンスにボールがぶつかる寸前にフェンスにパッと穴があく。なぜフェンスに穴があくかというと、実はフェンスは分子でできている。分子が動いている。たまたま分子が外側に向かって一斉にパーツと動く確率はゼロではないというのです。そういうときにパッと穴があいて、そこにボールがスポッと入る確率はゼロではないとかと書いてあるのです(笑)。ところが、そんなバカなことは実際はないわけです。なぜかというと、全くランダムに動いているからで、そういうのは統計学でちゃんと話がすみます。一つ一つの分子の動きを追いかけていって、はい今こうですよ、なんていう必要はないのです。そうすると、暑いとか寒いとか、気温が高いとか低いだとか、気圧がどうだとか、数値では計れるけど、実際一個一個の分子を述べる必要はないのです。
それは何を意味しているかというと、ミクロを追いかけるよりも、ミクロとマクロを橋渡しする理論というのが必要なのです。そういう理論は、私の知っている範囲では統計学しかなかったのです。ミクロとマクロを繋げるのは、ある意味では言葉と意味との関係なのですけれども、要約をするとか、集約をするとか、そういう概念が、今まで科学技術の中ではほとんどないのです。
ファジィ理論は、さっき「中年」と言ったときに、中年という言葉に対して、中年というのは私はこういうふうに思いますよと、ある程度幅をもったカーブを描いて、コンピュータに乗せるためには、ミクロで全部「0」「1」を決めないといけないのです。ところが、人間はいちいちそんなことをやっていない。我々は中年とか、さっき言った、ちょろちょろだとか、重いだとか、熱いだとか、そういう言葉で我々はしゃべっている。そういうマクロの言葉に対して、コンピュータに乗せるためのミクロをきめる橋渡しをする理論は有るかというと、実はファジィ理論がはじめてだったのです。エキスパートがしゃべる言葉をコンピュータに乗せるときに、コンピュータは「0」「1」のミクロの世界を厳密にやる。我々人問は主観的に曖昧にものを判断して、大雑把にしかものをしゃべらない。その人間のマクロの世界とコンピュータのミクロの世界を繋ぐ理論が、実はファジィ理論だったわけです。これは非常に重要なアイディアになるのではなかろうかと思ってます。科学技術の世界で、こういう理論が今まで確率・統計学以外になかったというのが、ファジィ理論が急に流行って、うまく使えた一つの理由です。
もう一つは、私は中年をこう思うというように、人によって違うということは、主観を認めているということです。私がしゃべっているこの言葉のこの意味と、ある人がしゃべっている同じ言葉の意味は、当然境界は不明確ですから、境界領域にダブリはあるけれど、ピタリ合っているわけではない。この状態をコンピュータや機械に乗せようと思ったときに、その違いが非常に明確になってしまうわけです。今まではどうしたかというと、人と違ってはいけないから、「中年」をみんなできめましょうといって、35から「中年」、50になると中年はやめて「熟年」、65から「老人」がはじまるときめて約束をしてしまうわけです。例えば、ここにいる人の年齢を聞いて、きょうの参加者は、青年何人、中年何人、熟年何人という話になるのです。イエスかノーかで片づけているなら、そういうことができるわけですけど、現実は、そんなに明確に区別ができるわけではないし、人によって違うのです。
そういう意味では、自分の好みだとか、感性だとかを認めて、それをコンピュータに乗せる手法を、ファジィ理論が提案した。ということは、科学技術の中にやっと「主観を復権させた」と僕は言ってますけど、主観は今まで排除されていたのです。主観というのは、ゆらぎみたいなもので、当然人によって違うから、そんなものを認めたのでは理論はでき上がらない。それはある意味では雑音みたいなものだったのです。いや、私はこっちが好きだということを、ちゃんと認めてコンピュータに乗せる理論が必要なのです。そういう意味で、主観をちゃんと復権させた、復活させたということで、このファジィ理論が特にアプリケーションで役に立ったというふうに考えます。
今までの話をずっと延長していくと、「景観」というのに非常に話が近くなってくるのです。なぜかといいますと、別の例で言いますと、これを言うとまた怒られるのですけど、美人だとか、いい男だとかという定義をしたとします。「いい男」の定義というのは、当然これは人によって違うし、しようとしたって無理です。だけど、何かファクターがあるだろうということで、背の高さだとか、とにかく思いつくものをたくさん並べて、これで「いい男」の定義ができたかというと、それはそれだけではない。なぜかというと、バランスが問題だからです。そう考えますと、非常に複雑なもの、多様なものをつかまえるためにはどうするかというと、主な要因をたくさんきめて、その要因の上の分布というのを認めることが重要になってきます。
今までは、これとこれが入っているか入ってないか、といったのですけど、これはこのくらいの割合で入っていてもいい、これは入らなくてもいいというふうに、重要なキーポイントがある分布で入っていれば、これは「いい男」としましょう、そういう使い方をファジィではしているのです。これは何を意味しているかといいますと、非常に複雑でコンプレックスなものを取り扱うための一つのアイディアとテクニックを提案しているのです。
「景観」というのは、先ほど黒川会長のお話にありましたが、生態系的な景観もあれば、ある意味では歴史学的なものもあって、いろんなファクターが当然あるはずです。そして、景観という見方をした場合に、都市の景観でも、自然の景観でも、その中には純粋自然もあれば、人間が手を加えた人工の自然もあるし、都市の人工物で出来上がっている景観などもあり、いろいろな景観がある。そのときに、これが正解だというものがあるとは到底思えないわけです。景観に、これが正しい景観ですよ、こういう場合はこれが正しい景観ですよ、というのがあるとは思えない。ということは、正解はこの世界にはないのです。ないけれども、それでも皆が納得するとか、癒されるとか、心がなごむとか、しっくりする。そのときどうするかといいますと、そこに関係するいろいろなファクターを見つけて出してみる。
たぶん理工系の人ならば、因子分析をしてみたりいろんなことをやって、いろいろなファクターを見つけ出すでしょう。その中で有力なものだけで全て判断しようとする。勉強で言いますと、英語と数学とか4つぐらいきめて、これだけで人問の能力を判断するというのと同じことが起きるのです。しかも、その点数を100点満点で出して、加算をして、上からバサッと切るというやり方を、入試や何かではやっているわけですけど、我々ファジィ理論をやっている人は、ファクター(要因)上のその分布が大事だと考えます。いろんなパターンを、細かくきょうはお話しませんが、専門用語で「ファジィ集合」というもので表します。こうすることによって、ファジィ集合とファジィ集合がどのくらい近いかが見い出されます。要するに、似ているという概念をファジィ集合では表現することができるのです。
従来の理論だと「一致しているか、一致してないか」というのがキーポイントですけど、ファジィ集合を用いると「似ている」という概念を表すことができまして、この景観はどこかの景観に似ている、または何々タイプ、何々タイプというふうに分類することができるようになるのです。ピタリ同じだとは当然いいません。0.8ぐらいで、このクラスに入りますよということになる。しかも、Aというクラスにも入るけど、同時にBというクラスに入ることも、ファジィ理論では認めています。世の中のことは、これか、これかではなてく、両方入ることだってあるのだということもかまわないというふうに考えています。
生物学などで分類する場合には、何科の何とか何とかと、必ずどこかに入れなければいけないことになっています。枝で分かれますから、共通部分がない。ファジィ理論は、そんなことはあり得ないのだと考えます。共通部分は必ずあって、生物学では「近い・遠い」ということを言いますが、ファジィ理論から言うと、「似ている、似てない」ということが言えるということであります。
そう考えますと、景観というのは、一般に我々は画像として見るということを考えますが、サウンドスケープみたいな音の景観ということもあると思うのです。そのようなものの評価方法に対して、たぶんファジィ理論は相当お手伝いできると思われます。これは今お話したところで分かると思うのです。
うちの研究室でやっている一つの例をお話しますと、うちでは今「音の景観」ということをやっています。どういうことかといいますと、電子メールを皆さん打つと思いますけど、電子メールの中に用語がいっぱい出てきます。その用語をつかまえて、この文章は、悲しそうな文章か、楽しそうな文章か、事務的な文章か、だいたい判断できます。ピタリそうとは言えないけど、こんな感じだと。そうすると、それに近い音楽をたくさん用意してある。この音楽は悲しいか、楽しいか、ただ秋風が吹いているようだとか、音楽を聞いた人にいろいろな印象を出してもらってまして、その印象の分布があります。ファジィ集合で分布を表して、そのメールの分布を見まして、一番近い音楽を見つけて、そのメールを打つと自動的に一番近い音楽が添付して飛んでいく。もらったほうは、そのメールを開けると音楽が流れる。その音楽は、実はそのメールと非常に良く似たメールだ。そういうことをやっているのです。
これはくだらないといえばくだらないです。くだらないけど、感性という立場から見ると、実に面白い話になってます。音というのは、音楽というのは、いろんなバラエティがある。文章というのも、いろんなバラエティがある。文章は文字情報です。音は音声情報です。それに画像情報、なんて考えますと、マチルメディアの世界で言いますと、音も、絵も、文字も、全然違ったもので共通部分がないのです。ないはずなのに、楽しそうな音楽、悲しそうな何とかというふうに、言葉で幾つかキーポイントを自動的に音から引き出したとします。どうやって引き出すかというと、例えばアンケートでやってみたり、こういう歌はどういうふうに思いますかと近い言葉を挙げてもらったりします。これをファジィ集合を用いてどれぐらい一致するかというのをやって、この音楽は、どうもこの言葉に近いというようなことができる。いろんな音楽に対して、いくつかの言葉を割り当てることができる。そうしますと、その言葉と、メールの言葉とがどのぐらい一致しているかで、両者の比較ができる。絵もそうです。絵を見て、この絵は春だ、明るいな、人が多いな、うるさいな、という概念が出たとします。人間はその絵を見て、「これは明るい絵ですね」とか、「春らしいですね」とか、「ざわざわしてますね」ということをもし言えたとすると、絵を非常に粗っぽい言葉で表現したことになります。これがファジィの表現なのです。その絵をちゃんと説明など全然してない。してないけど、印象としてちゃんと出している。そういうことをやりますと、絵と音楽と文字というのは、ある意味では文字のレベルで融合を始めることが可能になってきます。こんなことを、今のファジィ理論ではやりはじめているところです。
きょう私が話した内容は、全くちゃらんぽらんな、それこそファジィな、いい加減な話なのですけど、ちゃんと知りたい人は、理系の人のためにファジィについて書いた本がたくさんありますので、興味のある人は参考にしてください。また最近、日本ファジィ学会から『ファジィとソフト・コンピューティング・ハンドブック』というのが出
ました。
ソフト・コンピューティングというのが、実は今コンピュータ関係では一つの流れです。従来の計算は、ハード・コンピューティングというのですが、コンピュータの世界で一度厳密に数値計算をする。それに対して、「西の空が赤くて、東の空がこういうときは、あしたは雨である可能性がかなり高い」というようないい加減な文章の言葉を推理をして計算していくのを「ソフト・コンピューティング」というのです。ソフト・コンピューティングというのは、今後重要な分野に発展していくと思われますが、その中心になるのが「ファジィ理論」なのです。
ファジィ理論のまわりにソフト・コンピューティングとして柔らかい情報処理をやるための理論というのに何があるかというと、例えば、ニューロネットワークという人間の脳細胞を真似して何とか学習しようという理論があり、それ以外にもカオス理論やフラクタルの理論があります。現在もっとも注目されているのが遺伝的アルゴリズム(GA)です。
遺伝といえば、地球上にいろんな遺伝子があります。何千万種類あるのか私は数を知りませんけど、相当の種類の遺伝子が地球上には散らばっているはずです。人間はその中の一つにすぎないのです。ゴキブリからはじまって、植物まで、全部遺伝子によって地球上の生物が受け継がれているわけですけど、その内容はものすごく幅広い。なぜこんなに幅広くあるかというと、地球に大地震が起きたり、隕石がぶつかったり、大洪水が起きたりしたとき、それで死に絶えないようにするためです。どんな事故が起きても必ず生き残れるように、神様というか、遺伝子が、ある意味ではランダムに変わったり、とんでもない遺伝子が出来上がったり、オスとメスが遺伝子を半分ずつ出し合ってくっつけて新しい遺伝子を作っている。これは有性生殖の基本的な考え方ですけど、違った遺伝子をくっつけて新しい遺伝子をつくるというやり方をしているわけです。そういうふうにして人問でも同じ人がいないと同じようにいろいろな多様性が出てくる。生物は生物でまた突然変異だとか、適者生存だとか、いろいろな理屈で多くの種類を作って,たぶん生き残っているのです。適者だけが生き残っているというと、そうではなくて、生物は多様で、どんなことがあっても生き長らえるように、いろんな種類をつくってばらまいているのです。いろんな災害や何かでも、人間がだめになっても植物は生き残る、極端にいうとゴキブリは生き残る。そういう形になっているはずです。
それと同じことをコンピュータの中でやらせようというのが遺伝子アルゴニズム(GA)という考え方です。コンピュータの中である解が、もっともらしい答えだとしても、それを少しいくつかに変えてみる。実際に適用してみて、うまく合ったやつは2倍に増やして遺伝子の数を倍にする。うまく当てはまらなかったやつは、今まで遺伝子3個あったやつを2つにしてしまう。次に、うまくいった遺伝子と、うまくいった遺伝子をもってきて、半分ずつ出して新しい遺伝子をつくる。非常によくなるの時もあれば、全然だめな時もある。また、ある遺伝子は突然変異をして変身していく。そんなことをして解をたくさんつくっていく。そして、実際に適用してみて、だめなやつは消して、いいやつは増やしていく。これを何代も何代もやっていきますと、最後にいい解だけがどんどん残っていくというのが、ジェネティク・アルゴニズム(GA)という計算方法です。これは厳密に数値を計算なんかしてません。中でシミュレーションとか、いろいろやってみる。やってみて、うまくいったやつだけ残す。しかし、それだけでは、いざというときに全部つぶれちゃう可能一性があるから、ちょっと変なものをまたつくっておく。そういう計算方法をコンピュータでシミュレーションするのですけど、これは面白いです。うまくいきます。
どなたかご存じかもしれませんが、新しい新幹線がカモノハシみたいな嘴をしているのは、理論的にああなったのではないのだそうです。聞いてみたら、シミュレーションをやってみた。簡単に言うと、トンネルの中にあの曙の形でバサッと入ったときに、一番抵抗の少ない形はどういうのかというのをやって、ちょっと口の形を変えてみた。それで抵抗が多くなったので反対側を減らしてみた。それでやってみて、また減ってきた。じゃこっちを減らしてみたら、また増えてきた。というようなことで、ちょこちょこ変えていって実験した結果、一番いい形がああだったという話です。これは理屈も何もないです。シミュレーション、実験だけです。
コンピュータの中ではいろいろ実験ができるのですけど、新幹線をいちいちトンネルの中でやってみて、音が大きいからこれはダメ、また次のをつくってやって、またダメとかやっていたら、これは金かかってしょうがないです。もしかしたら、トンネルの中て事故が起きて人が死んだりするかもしれない。コンピュータの中でトンルネの状況をちゃんとつくって、通過したときの抵抗などを物理的にシミュレーションするようにして、あとはコンピュータで何回もやって、形を少しずつ変えていって、いろいろなものをつくって、一番抵抗の少なかった形を見つければいい。こういう計算方法なのです。
これは従来の微分方程式を解いて解を求めるという計算方法とは根本的に違っている。これを計算といっていいかどうかは分かりませんが、ソフト・コンピューティングという一つの新しい柔らかい情報処理に基づく計算方法だというふうに、我々は考えています。ニューラルネットワークというのもそうですけど、そういう新しい理論がたくさん出来はじめまして、それは従来の厳密に微分方程式を解いて解を求めるというのではないやり方。これをソフト・コンピューティングと言ってます。その中心がファジィ理論というふうに、私は考えています。ファジィ理論はこのように新しい方向に進展しつつあります。
日本でファジィ学会ができて11年目です。学会員は千5,6百しかおりません。一番多いときは2千人までいたのですけど、バブルの崩壊で企業の方が抜けまして千5百ぐらいになっているのです。そのファジィ学会を立ち上げたときと、現在の景観学会は非常に似ていると思います。なぜかというと、まだ正確には何をやっていいか分からない。そして、いろんな人が、要するに文系、理系、全部入り込んできて、何をやろうか、何を「景観」と言おうかと、概念定義からまず始めなければいけないというところは、非常に似た形だと思うのです。大事なことは、ファジィがちょうど「0」と「1」の中間を狙おう、ある意味では反対するものを融合しよう、ちょうど中問のいいところを探そうというふうに、しかも人間と機械との橋渡しをしよう、そういう立場でやってきたというふうに考えますと、この景観学会も、やはり似たところがあると思います。もっと広く話をすれば、東洋的な思想と西欧的な合理的思想の融合という感じがします。ただ単に足して2で割ったのではなく、実はお互いにいいところを認め合いなから落ち着き先をみつけていこうという考えが、この裏にはあると思います。
「景観」というのは、先ほどお話にあったように、英語にはないと思われます。日本の景観という概念は、アメリカの用語の中にはたぶん見つからない。もう一つ私は、日本感性学会というのに入っていますけど、やはり「感性」という言葉も英語にないのです。感性学会はここと同じように「KANSEI」とローマ字を便っています。感性だとか、景観だとか、実に日本的です。実はファジィという曖昧さも、日本から出したかったのです。日本で単に「曖昧」といったら怒られちゃいます。「曖昧」に相当する言葉は日本にないなと思ったときに、向こうから「ファジィ」という言葉が出てきたので、ファジィなら日本人には「曖昧」とは分からないだろうということで、「ファジィ」が広まっていったのです。適切な言葉というのが概念は大事だと思います。
「景観」とか、「感性」とか、日本発の概念がある。それに対してヨーロッパの思想、先ほどの黒川会長のお話によりますと、やはりキリスト教的な発想、一神教の文明が一方にある。それに対して我々多神教というのですか、八百万の神の精神、これのある意味ではあり方をちゃんと提案する時期である。21世紀はそういう時代だと私は思っています。先ほどの「共生の思想」というのは、非常に私の「ファジィ思想」に共感するところが多いと思っています。そろそろこういうことを日本から発信すべきであると考えております。そういう意味で、この景観学会の目指すところは大変適切であろうと思っています。
「景観」というこの概念、実に非常に曖昧な概念です。たぶん人によって違う。それからまったく同じものは二度とでないという可能性があります。しかし、これもこれまでの科学的なアプローチであるいろんなパラメーターを用いた方法、例えばエントロピーとか何かを見て、エントロピーが一番多いところが安定しているとか、そういう別ないろんな見方がたぶんできると思うのです。そういった、科学的な手法、それから我々の主観で、これはいい、悪い、我々として心が癒せるとか何とか、そういう両者の意見を聞きながら、適切な方向を見つけていくということは可能だと思います。そのとき「景観」研究にファジィ理論の果たす役割というのは大変大きいのではないかと思っています。
そして、できたら「科学と文化の橋渡し」ということをぜひやりたい。これは私の目指すところであります。理工だとか、社会科学だとか、人文だとか、日本は分けすぎました。大学の学部も分かれています。これはお互いに不幸であると思います。ファジィをやってみて分かりましたことは、実は、どこからでもこの分野にアプローチできる、どこからでも意見が出せるということであります。理工系は理工系の一つのドグマというか、ある考え方があって、その中だけで話を進めているのですけれども、実はそれは非常に狭い世界の話であって、全然違った世界から見ると、目からうろこが落ちるように見方はたくさんあるのです。そういう意味で、「景観」という概念を通して、文型、理系、いろんな分野の人が入り込んできて話し合うことは大変いいことだと思っています。
そろそろ時間ですのでまとめに入りますけど、「ファジィの思想」について、幾つか考え方をお話いたしました。一番大事なことは、実社会には正解がないことが、実はたくさんあるということです。それから、もうちょっと人間を主体に、主観を大事にして、人間を復権させるということであります。私は、コンピュータから入ってきましたが、やはりもっと人間を重視したい。更に、イエス、ノーだけで割り切れる、還元論的に、これとこれだけで全てが説明できるという、そういう単純な世界ではない複合した世界というのを、ちゃんと我々はまともに認め合って、それに対して研究していくことが大事であろうと思います。
そういう提案をさせていただいて、いつも早口でみんなから文句を言われるのですけど、このへんで私のお話を閉じさせていただきたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。(拍手)