安全マップ(安全曼荼羅)の提案
Proposal on Safety Map or Safety Mandala
向殿 政男
Masao Mukaidono
概要
これまで個別技術として発展してきた各分野の安全技術には, 実はかなりの共通的な考え方がそこには横たわっている。各分野で開発された安全技術に共通する考え方を一般化,原則化することで,他の分野の安全技術にも応用可能な道が開けるはずである。これを実現するためには,あらゆる安全技術をその適用範囲の広さ,抽象度に従って階層化する必要がある。本稿では,それを三層構造で構成することを提案している。
一方,安全には,個人の価値観やその時代の社会の価値観が深く関与している。従って,安全には,工学としての技術だけではなく,人文科学や社会科学が深く係りあっている。真の安全を実現するためには,広く人文・社会科学を包含した包括的な立場から安全を考察し, 安全を学問として構築していく必要がある。本稿では,安全技術を基礎にした安全学の確立を提案している。
以上を実現するために,本稿では安全に纏わるあらゆるキーワードを網羅してリストアップし,それらを分類し,階層化することを提案する。これは安全マップ,または安全曼荼羅と呼ばれる。
1.はじめに
安全技術は,これまで各分野独自の個別技術として発展してきた。その分野の知見と経験に深く根ざしていて,他の分野の人からは,なかなか窺い知れないところがある。安全を現場で技術的に実現するためには,その独自の分野の専門知識を深く追求しないかぎり実現できないからである。安全技術は,本来的に個別技術であり,極めて専門性が強い性格を有している。しかし,各分野で開発,実現されている安全技術には,共通部分や共通した考え方があることは昔から良く知られた事実である。一方で,同じ安全技術や考え方が分野によって異なった名称を有していたり,同じ安全に関する用語が異なった内容を有していたり,また,ある分野で常識的な安全技術が他の分野ではほとんど知られていなかったりすることが多々あることも,よく知られた事実である。安全技術は現場の技術の積み重ねであり,過去の経験の積み重ねという面が強いので,他の分野の安全技術との共通性,すなわち標準化という発想が出にくいのは仕方がないのかもしれない。しかし,これでは安全の技術,安全の学問の体系的は進歩,発展は困難である。
ある分野で開発された安全技術は,専門的には確かにその分野に特化した技術であるかもしれないが,その考え方の深層には,他の分野にも応用できる考え方が隠されているはずである。他の分野で利用するためには,その安全技術の本質を他の分野の人にも理解可能,応用可能なように一般化,原則化する必要がある。そうしな限り,たまたま二つの分野に詳しい安全技術者が居た場合に限り,ある分野に特化した安全技術が他の分野に移転可能になるだけである。多くの分野でそれぞれ血を流し,苦心して開発してきた安全技術や知恵が他の分野にすぐに応用できないのは,もったいない話しであり,起らなくても済む悲劇を繰り返すことになる。
本稿では,個別分野に特化した安全技術を基本にして,そこから一般化することで共通に使える安全技術や考え方をその上に置き, 最上位に安全の理念的側面を置くという安全に関する三層構造を提案する。次に理念的側面について更に詳しく考察し,続いて,この階層構造に従い,安全に関するキーワードを分類する安全マップ(安全曼荼羅ともいう)を提案する。最後に, 安全には,人間の価値観が関与するだけでなく,人間の身体的,心理的,社会的ファクター等を無視することは出来ないので,真に安全の学問を確立するためには,安全工学に基礎を置いた,人文科学,社会科学を包含した安全学の確立を目指すべきことを主張する。
2.安全技術の体系化
安全の技術は,これまで,色々と分類されることが試みられてきた。例えば,
(1)事前対策技術
(2)運用中対策技術
(3)事後対策技術
(4)支援対策技術
の様に分類することが一般的であろう。また,
(1)ハード的手法
(2)ソフト的手法
(3)人間的手法
(4)組織的手法
(5)数理的手法
という分類も可能であろう。しかし,ここでは,安全の技術と考え方を
(A)安全の理念,原理・原則のようにすべてに共通するもの
(B)各分野に共通に利用できるもの
(C)各分野固有のもの
の三つに分割し,(C)の上に(B)を,(B)の上に(A)を配置し,下層は上層に則るという三階層に構造化した形にすることを提案する。これ以外に,
(D)安全に関連した分野
からも学ぶべきことが多いはずで,これも一つの分類として位置付けたい。また,(B)の共通に利用できるものには, 技術的側面,人間的側面,組織的側面の三つに分類することが出来る。すなわち,ここで提案する分類は,
1.理念的側面
2.技術的側面
3.人間的側面
4.組織的側面
5.各分野の安全
6.関連分野
の6つになり,それぞれ,図1の様に三つに階層化される。この階層構造では,下は上の考え方の特殊のものである,すなわち,下は上に則って決められるという構造になっている。例えば,ある分野で考えられた新しい安全技術は,そのエッセンス,すなわち本質的部分が抽象化されて中間層に位置付けられる。各分野の安全は中間層の技術や考え方を利用,参照する構造になっているので,直ちに自分の分野に取り込むことが出来ることになる。
<<図1入る>>
3.安全の理念的側面
ここでは,トップの階層の理念的側面について,もう少し詳しく見てみよう。これは更に次の四つに分類してみる。
(1)安全とは?
(2)安全と価値観
(3)安全と人間性
(4)安全の構造
安全に関するいろいろな概念等をこの四つの箱に分類して見ると,例えば,次のようなものが入るのではないだろうか。
(1)安全とは?
・安全の定義
・リスクとは
・許容リスクとは
・確定論的安全と確率論的安全
・確率と安全性の関係
・安全性と信頼性に関係
・無条件安全と絶対安全
・フェールセーフとは
・危険と安全の関係
・ハザード(潜在危険源)とは
・Safety と Security の関係
・事故,災害,被害等の関係
・故障,障害,欠陥等の関係
(2)安全と価値観
・価値の優先順序
・安全と責任
・安全とコスト
・安全と利便性・快適性
・
安全と機能性
・安全と効率
・
・安全と経済発展
・安全と公共性
・安全に関する倫理観
・個人を優先すべきか社会を優先すべきか
・安全と自然環境破壊
・安全と文化的風土(民族性・歴史)
・安心とは
・安全文化・安全思想
・社会的に安全をいかに認め合うか(合意するか)
(3)安全と人間性
・人間は間違えるものであるという特性
・安全と人間の慣れの問題(人間は安全を忘れる動物である)
・最後の安全は人間に任せるべきか機械に任せるべきか
(4)安全の構造
1)何を守るのか?
・人(命,傷害,健康障 害,精神障害,尊厳),
・財産,
・機械システム(装置,機械的機能)
・情報
・家庭
・組織
・会社,
・社会
・社会環境
・国家
・人類(未来の人間)
・動物
・自然環境
2)何から守るのか(何が原因か)?
・人間のミス
・機械の故障
・人の故意・悪意(ハッカー,オカルト集団,ハイジャック,侵略)
・自然災害
3)どうやって守るのか?
・人(教育,訓練),
・技術(機械の高信頼化,機械的機構,安全装置,自動監視,),
・情報(伝達,蓄積,処理,コンピュータ,コミュニケーション)
・人間機械系(ヒューマンマシーンインターフェース)
・組織的機構(管理,監査,認定,認証,社会制度,国家的機構)
・法規(規格,法律,罰則),
4)何の名の下に?
・人命尊重,人間尊重
・
人権,平和,正義,公平,公共性,社会的安定
・神
・安心な社会
・社会的繁栄(利便性,低コスト,経済的発展)
4.安全マップ(安全曼荼羅)の提案
“1.安全の理念的側面”については,前項で少し詳しく紹介したが,それ以外の5つの大項目,2.技術的側面,3.人間的側面,4.組織的側面,5.各分野の安全,及び,6.関連分野についても同様に中を更に詳しく分類して,安全に関する各種の細項目を分類することが可能である。このように,安全に関する各種の概念,技術,等々を分類し,構造化したものを安全マップ(又は安全曼荼羅)(1)と呼ぶことにしたい。こうすることによって,安全に関する学問の体系の概略が見えてくと共に,今,自分が関与している安全の技術や対象が,安全マップの何処に位置するかを見ることで,
安全の全体の中での位置付けが明確になる。安全マップの構築を通して,安全に関する学問体系の確立を目指したい。更に,他の分野での安全の技術を自分に分野へ応用することヒントになり,逆に,新しく開発された安全技術は,自分の分野の安全に貢献するだけでなく,上の層の項目に登録することで,他の分野の安全にも貢献することが出来るようになる。ひいては,安全の学問の確立にも貢献することになる。これが安全マップの狙いである。もちろん,このマップは,一人では完成させることは難しい。安全は,余りに広い概念と関連し,余りに多くの分野と関連しているからである。今後,多くの関係者が参加することで異なった多くの立場から意見を出し合い,意見を交換し合うことで,安全マップを完成させていきたい。表1に,試みに現在提案されている内容の概略を紹介する。
<<表1入る>>
5.安全学の構築に向けて
安全には,個人の価値観やその時代の社会の価値観が深く関与している。従って,何を以って安全とするかという点に関しては技術だけでは片付かない。また,事故や障害の原因にも,またそれで被害を蒙る側にも,人間や組織や社会が深く関係している。すなわち,安全には,工学としての技術だけではなく,人文科学や社会科学が深く係りあっている。真の安全を実現するためには,安全工学や安全科学だけでなく,広く人文・社会科学を包含した高い包括的な立場から安全を考察し, 安全を学問として構築していく必要がある(図2)。安全を広く安全学として構築すべきであると言う意見は,現在,多くの人から提案されている。例えば,村上陽一郎氏(2)は,主として科学哲学の立場から安全学を考察している。一方, 日本学術会議では, 安全に関する緊急特別委員会を設置して, “安全学の構築に向けて”(3)という報告を出している。これは主として,吉田民人氏を中心に社会科学の立場から安全学の構築を提案している。筆者は,“人間は間違えるものであり,機械は故障するものである”ということを大前提に,ただし,人間の信頼性よりは機械の信頼性のほうをはるかに高くすることが可能であり,更にフェールセーフ技術,フールプルーフ技術で高い安全性を実現できることから,機械安全など人工物に関連した安全分野では,安全は技術で作り上げるべきものであるという考え方を持っている。すなわち,安全工学の立場から,安全技術を基礎にした安全学の確立を提案したいと考えている。 安全マップの構築は,この確立のためのスタートと考えている。
<<図2入る>>
6.あとがき
最近,安全技術の問題なのか,安全管理の問題なのか,それとも安全倫理や安全文化の問題なのか判然としない事故,障害が我が国で多発している。当面,色々な対策が取られるであろうが,基本的には,
我が国において安全に関する学問が確立していないこと,及び安全教育が教育機関で十分に行われていないことが遠因のように思える。迂遠ではあっても,根本的には,学問としての安全を確立し,それに基づいて安全教育を実施するしかないのではないだろうか。筆者は,安全技術を基礎にして安全学を樹立することを提案したいが,そのためには,安全の構造を明確にする必要がある。そこで,安全に関するキーワードを分類,整理するために安全マップ(又は,安全曼荼羅)の構築を提案している。ただし,ここでの提案は,初歩的なもので未完成である。今後, 広く識者の呼びかけて,意見を聞き,知恵を出し合いながら協力してこの安全マップ(安全曼荼羅)を構築し,完成させて行きたい。インターネット等を通じて,多くの方に参加して頂いて,この安全マップを完成させることに努力して行きたいと考えている。このことを通して,我が国が今後の世界の安全技術と安全文化の向上に寄与して行くことを期待したい。
文献
(1)向殿政男:安全マップ--安全工学,安全科学,安全学の学問的体系化に向けて--,日本学術会議安全工学専門委員会WG,2000-4:http://www.sys.cs.meiji.ac.jp/~masao/kouen/anzen.html
(2)村上陽一郎:安全学,青土社,1998
(3)日本学術会議,安全学の構築に向けて,安全に関する緊急特別委員会2000-2
(むかいどの まさお/明治大学)
著者紹介
<<写真入る>>
向殿 政男
1942年4月5日生。1970年明治大学大学院工学研究科博士課程修了,工学博士,同年明治大学工学部専任講師。1978年同教授,現在,明治大学理工学部情報科学科教授,同理工学部長,同大学院理工学研究科委員長。主に,情報科学,安全科学,多値論理学,その中でも特に、ファジィ理論,フォールトトレラントシステム,フェールセーフシステム等の研究に従事。国際ファジィ学会副会長,日本ファジィ学会会長,電子情報通信学会フォールトトレラントシステム研究専門委員長等を歴任。現在,日本信頼性学会会長,私立大学情報教育協会常務理事,アジアファジィシステム学会会長,ISO/TC199(機械安全)国内審議会委員長, 安全技術応用研究会会長,日本学術会議安全専門委員会委員,原子力安全委員会安全目標専門委員会 委員,電子情報通信学会フェロー。
図1.安全の構成
図2:安全の学問の体系化に向けて
表1:安全マップ(安全曼荼羅)の概略
「安全の構成」 1. 理念的側面 1. 理念的側面 1-1. 安全とは? 2. 技術的側面 2-1. 時間的分類 ・事前評価技術 2-2. 個別技術 ・本質安全設計 ・信頼性技術 ・冗長性,多重性,多様性技術,独立性 ・フォールトトレランス ・フェールセーフ ・フォールトアボイダンス ・フールプルーフ ・フェイルソフト ・インターロック ・フォールトレジスタンス ・タンパレジスター ・安全制御, ・防護(ガード,防 具) ・コンピュータ・情報技術 ・故障診断 ・安全/信頼性評価・ 解析システム ・安全論理 等々 |
3. 人間的側面 ・ヒューマンマシーンインターフェース(HMI) ・誤使用,エラー ・人間工学 ・心理学 ・安全教育(含:技術教育,訓練,倫理教育,人材育成) ・情報開示(掲示,警告,マニュアル), ・意欲と責任 ・安全意識 ・安心 ・年代ギャップと社会的変化 等々 4. 組織的側面 ・安全管理(リスクアセスメント,リスクマネージメント) ・標準化 ・法律と責任 ・規制と基準(安全基準,法規制,自主規制) ・認定・認証制度 ・事故調査 ・事故データの蓄積・情報提供センター ・学会活動,研究会・国際会議の開催 ・安全機関・連絡会議 等々 |
5. 各分野の安全 ・機械安全 ・原子力安全 ・交通安全 ・プロセス安全 ・化学安全薬品安全 ・製品安全 ・労働安全 ・材料安全・物質安全 ・構造安全 ・爆発安全・火災安全 ・食品安全 ・医療安全 ・災害安全 ・システム安全 ・コンピュータ安全 ・機能安全 ・情報安全 ・社会安全 ・環境安全 等々 6. 関連分野 ・危機管理 ・防災 ・警備 ・機密保護(セキュリティ), ・警察 ・保険 ・公害 ・金融リスク等の他のリスク ・地域紛争 ・風聞被害・マスコミ被害 ・情報操作 ・防疫 ・裁判制度 等々 |