7-1 完全に「情報化」された大学はありうるか?
荒川ゼミナール
責任者:内藤潤
参加者:石田達也、内藤裕郎、宮田貴広、新井真、伊藤真悟、末澤広務、
花村初美、久光秀明、松本芳則
- まえがき
現代においては、大学のみならずあらゆる場において「情報化」が図られている。この「情報化」とは即ち省力化に他ならない。特に不況といわれる昨今においては、省力化は各種産業にとって欠くべからざる命題といえよう。いかに節減しつつ発展させていくのか、この大きな課題に対して「情報化」は大きな力となっている。そして大学もその例にもれない。
- 導入部
大学とは何か?この問いかけにはさまざまな答えが予測されるが、いわゆる企業等と比較して鑑みると経営(=運営)という側面はよく似ているが、物を売買または取引する代わりに、そこに人間そのものを育成するという点では大きく違うと思われる。したがって、大学における「情報化」を運営面と、人間育成つまり学生を指導する指導面という二つの側面から考えていきたい。
- 未来の予想、予測
双方の情報化された未来について考える。
まず、運営面では省力化がかなり進むであろうと予想される。既に、学生は学籍番号を与えられ、個人の情報はコンピュータによって管理されている。この先、履修届けはネット上で登録、削除、変更などができるようになり、休講、補講情報なども自動的にメールで送られるようになるのではないかと考えられる。学生証が本人のIDカードとなり、カードを通して授業の出欠席の確認をしたり、本を借りるときに使う図書カードと併合されたりするのではないだろうか。また、キャンパスを作る際に大学の予算をデータとしてコンピュータに打ち込み、大学を建てるのにベストな環境の検索を行うことも可能となるであろうし、大学の建物もカードの使用のみでドアの開閉を行い部外者の立ち入りを禁じ、建物全体をセンターで管理するなどセキュリティ管理が進むことも予想される。このように、より効率的な運営が行われるための改革の余地は十分あり、実現の可能性も大きく、期待される。
一方、指導面においてはどうだろうか?まず、無線LANを構築すれば、パソコンによって出席をとることや、講師が問題を送信し、学生がその解答を書き込んで返信する、といったことができるので演習やテストをスムーズに行うことができる。また、手書きでノートを取らずに個人のパソコンを使ってノートを取ることが可能となる。すなわち、コンピュータを介して授業を行うことができるようになるため、在宅学習ができるようになるであろう。つまり、さらに発展すると授業がオンライン上で行われ、学生や講師は家にいても授業を行うことができるようになると考えられる。遠方の学生のかなりの負担となっていた住居費、交通費等の経費節減にも大きく寄与できるだけでなく、通学時間を無駄にしたくない大学生、大学に行きたくても行けない社会人、高校生やお年寄りなどが授業に参加することができる。また、留学しなくてもリアルタイムで世界中の授業に参加し、TV電話のような双方向通信を使えば外国人と問答や意見交換を行うことが容易になる。
- その時の問題点、課題
まず、運営面から考えてみると、先に述べたように「情報化」すなわち省力化が進んでいると考えれば、特に問題はないように思われる。更なる「情報化」がこれからますます進められるだろうが、そこに予期せぬ落とし穴があるのではないだろうか? 運営面において情報化が進むと、やはり管理体制の見直しが求められると考えられる。例えば、IDカードの役割が大きくなってくると、カードの管理を厳重にするのはもちろん、外部からの管理用コンピュータへの不正アクセス等に対するセキュリティ対策も必要とされるだろう。ネット上での履修届けでは、本当に登録や削除ができたかどうかという心配が出てくる。このような心配を解決するために、例えば端末によるアクセス中に回線が切れた時にどうするかなどの対策や、自分の個人情報の閲覧ができるようにするなどの対策が必要であるだろう。
次に、指導面における問題点を考えてみよう。ここで、まず大学の学校教育としての位置付けを考えてみる。単に技術を学ぶだけでなく、人間形成の場としての意味がある。あくまでも人間と人間の関わりがあってこそ機能するのである。そこには、人情や機微といったものが存在することさえあり、それが大学教育の重要な根幹を成すことすらある。だから全く大学に行かないで学ぶとなるとその点に問題がある。自宅で授業を受けることになると、大学としての意味がなくなり、これでは通信教育、百歩譲って専門学校でも十分賄うことができる。ネット上で指導を受けるだけでは大学とは言えないのである。また、自宅で授業を受けるとなると、校舎自体がいらなくなり、大学としての場がなくなり、システムだけが残る形になる。もし、全ての大学でこのようなことが起これば、大学は画一化され、それぞれの個性を失ってしまう。今、大学が企業と大きく違う点があるとすれば、企業が画一化されていく中、大学は個性化を図っている。この競争社会の激しい中で、不況の折、企業は画一化せざるを得ない状況におかれることもあるが、逆に大学は少子化も進み多くの学生を獲得するために個性化を要されるのである。これは国公立大学ですらその道を模索している時に私立大学においては尚更である。そもそも根源的な部分では大学建立の意味というのは、当然人間の意志・感情から始まっているので、大学に個性は存在するべきである。つまり大学というものが創設の意思を持って発展していくものであるならば、指導面における「情報化」が進んでいった場合、必ずそこに衝突がおこる可能性がある。直論を言えば、人間対コンピュータという対立図式が描かれるであろう。
- それを解決する方法、見通し
省力化を目指すためには「情報化」が不可欠であるのは言うまでもない。しかし、大学というものは、あくまでも人間が主体であるから、全てを省力化することは不可能である。大切なのはコンピュータと人間とのバランスである。情報を上手に処理し効率良く事を行っていくかの指導権を握るのは結局人間である。人間が大学を作るのであり、いかにより個性ある良い大学として発展させていくのか、その手段として「情報化」を要すると考えてきた。しかし、今後自己学習能力ができるようなコンピュータ開発が進んだ暁には、そうした事までも委ねられる日が来るかもしれない。そうなっても道しるべとなるべきは人間の思想ということを忘れてはならない。
- 考察、感想
大学が情報化されたとしても、最終的により良い学校を目指すためには人間の存在が欠かせない。総合的に大学運営をコンピュータに取って代わられるのはありえない。目指すところは、人間の意思感情が決定すると考える。
- あとがき
大学の「情報化」は単にハード面を整理すれば良いというものではない。それを担うソフト面の充実、人間教育の充実が大きな課題となる。そのことを忘れずに「情報化」とは、全てをコンピュータ化するという事と同様に考える私たち自身が、より前向きに成長していくための支援する大学教育の側面として捕らえていきたいと思う。