「機械の包括的な安全基準に関する指針」の課題と期待

明治大学理工学部情報科学科 向殿政男

1.まえがき

 「機械の包括的な安全基準に関する指針」(1)が,2001年6月1日,厚生労働省労働基準局長から通達として出された。“包括的”安全基準とは,余り聞きなれない言葉であるが,この基準は,これまでの構造安全規格のような特定の機械に対するものではなく,労働の現場で使用される可能性のあるあらゆる機械を対象にしている。そして,機械の製造者はもとより,機械を導入して労働者に使用させる事業者に対する基準であり,更に,機械安全のための一般設計原則や安全要求事項を記述している基準であるために,文字通り“包括的”という用語になっている訳である。

 リスクアセスメントに基づいて設計の段階から機械設備そのものをまず安全化することを第一とするこの包括的な安全基準(以降,包括安全基準と言う)の目指すところは,我が国の今後の機械安全と労働安全のあるべき姿を示している極めて重要な内容を含んでいる。事実,この方向は旧労働省が提案している第9次労働災害防止計画にも述べられている。これでやっと,下げ止っている労働災害の数の劇的な減少が期待できる,我が国の機械安全と労働安全を一貫した考えの下に統合化でき,かつ世界的な流れにも整合化させることができる,世界に向けて国内と同じ条件で機械設備を輸出できるようになるために機械産業を大いに振興させ,かつ認証業務という新しい産業を創設できる,我が国の安全技術の発展と安全文化の定着に貢献できる,等々の期待があり,本包括安全基準案を検討していた委員会には各分野の専門家が参加し,各委員は使命感と責任感を持って原案を検討して来た。なかなか指針が公表されないことに苛立ちを覚えていた上に,少なくとも告示レベルで公表されることで一刻も早く,広く知れ渡り,理解され,現場に定着されることを期待していた各委員は,通達と言うある意味では事務連絡レベルでの公表に失望し,不満を漏らす向きも少なくなかった。知れ渡らないだろう,守られないだろう,無視されるだろう,定着しないだろう,その結果,相変わらず労働災害は減らないことになり,かつ,我が国の機械産業は安全の面で世界から孤立していくことになる,等々の心配からである。しかし,労働者の安全と機械設備産業の発展を考えた場合,今後,本包的安全括基準の目指す方向はもはや変わることは無いだろう。ただ,この内容と意味するところが広く理解され,製造者,事業者が経験を積んでこの考え方に慣れて定着するようになるまでには,また,これを補完するために必要な制度や法律が整備されるようになるまでには,少し時間が必要なだけであろうと考えている。

この包括安全基準を検討していた委員会に携わった一人として,この基準が定められるようになった背景と経緯,内容の概要,及び本包括安全基準に対する課題と期待とについて述べてみたいと思う。

2.包括安全基準の経緯と背景

 労働現場での災害の数が下げ止まっている。特に,機械設備によるものはそのうちの30%を占め,4日以上の休業を含む死傷者数は,毎年数万人を超えている。従来の教育と訓練を中心に置いた,すなわち人間の注意を重視する我が国の労働安全の考え方を抜本的に改革して,機械設備そのものを安全にしない限り,この数を減らすのは困難なように思える。現在,厚生労働省は,特定の機械に付いて構造安全規格を以って強制規格としている。しかし,新しい安全技術が開発されても柔軟に導入することは困難であるだけでなく,新しい高度な機械が労働の現場にも多く導入されて来ており,数が余りに多いためこれらについて早急に対処することもまた現実的には極めて困難である。事実,労働災害は,これらの強制規格になっている機械設備でも起きているし,また,より多くの災害が規格の定められていない機械で発生している。

一方,国際的には,ISO(国際標準化機構),IEC(国際電気標準会議)を中心にして,機械類の安全性に関する国際規格が定まりつつある。現在の機械安全に関する国際規格は,ヨーロッパでの長い議論と検討と経験に裏打ちされた欧州(EN)規格がその骨格をなすものである。現在,ヨーロッパに機械を輸出する場合,この安全規格に適合しない限り製品の流通は禁止させられている。即ち欧州指令により強制規格となっている。一方、我が国は、例えば労働安全に関しては労働安全衛生法に定める特定の機械に対する構造安全規格が存在するだけで、ほとんどの機械設備に対して強制規格はない。コストを重視する余り安全装置なしで自由に流通をしている。更に、 欧州指令による安全規格は現在の我が国に存在する構造安全規格よりは厳しい内容で,機械安全に関しては多くの我が国の機械メーカは国内用と輸出用とのダブルスタンダードを用いているという好ましくない現状にある。現在定まりつつある機械安全の国際安全規格は,3層の階層構造という柔軟な構造になっており,その頂点にある(A規格または基本安全規格と呼ばれる)ISO12100(欧州規格EN292に対応している)は,「機械類の安全性―基本概念:設計のための一般原則」という規格名が示すように,全ての機械が満たすべき安全の要求事項を規定したものである。安全装置や安全距離等の共通に用いられる規格が中間にあり(B規格またはグループ規格と呼ばれる),最後に個別の機械に対する規格(C規格または製品規格と呼ばれる)が位置し,下位は上位の規格に則るとしている。我が国のこれまでのJIS規格や構造安全規格はC規格に対応している。あらゆる機械はA規格に記してある安全要求事項を満たすことが要求され,これに則って作ってあるC規格が存在する場合は,その構造規格に従えばこれを満たしたことになる。C規格がまだ制定されていない機械については,あるいはC規格にない新しい安全技術を採用する場合には,上位の安全要求基準を満たすことを立証すればよい事になる。この3層構造により,あらゆる機械にたいして安全基準を満たすように要請することが可能になり,新しい安全技術に対しても柔軟に対応することが出来るようになる。今回労働厚生省から公表された包括安全基準は,基本的にはこの国際安全規格におけるA規格であるISO12100の沿って作成されている。従って,これに従えば,国際安全規格にほぼ整合していることにもなる。

今回の包括安全基準の委員会審議で明らかになった事実は,実際に起きた死亡事故の原因を調べたところ,もし,機械設備がこの包括安全基準を満たしていたとすれば,救えた事故は80%に達するだろうということである。今後,労働の現場で使用する機械設備がこの包括安全基準に従うことになれば,機械設備に起因する労働災害は劇的に削減されるのは間違いない。

3.包括安全基準の概要

 ここでは,この包括安全基準の内容について詳しく述べるゆとりはないので,他の解説に譲るとして,特徴だけを紹介する(本基準が参考にしている国際安全規格ISO12100に付いては,文献(2)に詳しい)。

(1)前述したようにすべての機械を対象に,製造者と事業者の両方がこの指針に従って安全方策を行わなければならない(ISO12100は,基本的には設計者,即ち製造者を対象としている)。

(2)機械の安全化の手順が決められていて(同基準に添付されている別図1参照),まず最初に機械の製造者が安全な機械を作ることを要請し,製造者からの情報を基に事業者が始めて教育等の安全方策を施さなければならない。

(3)製造者が施さなければならない安全方策にも順番があって,1)本質安全設計,2)安全防護及び追加の安全方策,3)使用上の情報の作成,の順に実施しなければならない。

(4)リスクに基づく安全の確保が基本であり,リスクアセスメントを実施しなければならない(同基準に添付されている別図2参照)

とされていことである。

 

<<別図1入る>>

 

4.我が国の機械安全と労働安全の課題

 「労働の現場で使用する機械設備は,この包括安全基準を満たすことを要請する,具体的な個別機械の構造規格はJIS規格として定めてこれを満たせば包括安全基準を満たしたと見なす,基準を満たしているか否かの検定は民間の認証機関に任せる,そして少なくとも,現在,厚生労働省が特に危険な機械として指定して強制規格として定めている特定の機械の構造安全規格は,この包括安全基準を満たすように改定する」,これが当初,委員会のメンバーが思い描いていた図であったと思われる。残念ながら今回はそれに向けて一歩を踏み出したに過ぎない。確かに包括安全基準を労働安全衛生法の一部に入れて,強制法規にすることが良いことか否かは,議論する余地は十分にある。絶対安全はありえない以上,事故が起きる可能性は常に有している。責任問題を考えた場合,強制安全規格と言うものが成り立ち得るのか否か疑問の余地がある。しかし,我が国の製造メーカの「一斉にやらなければならないのであれば従うし,その技術的能力は有している。しかし,抜け駆けを許すようであれば,即ち任意であるならばやらない。なぜならばコストが上がり,必ず抜け駆けをする企業が現れ,真面目にやった企業が競争に負けるからである。」と言わなければならない現状を見過ごしてはならない。わが国としては少なくとも当初は強制法規にしてみたらと言いたくなる面が確かに存在する。罰則以外に,製造者,機械を使用する事業者(以下単に「事業者」という)が十分な安全装置を施した機械設備を製造し,使用するインセンティブはどこにあるのだろうか。PL法などで法外な賠償金を払わねばならなくなるという危機管理の点からか。それとも,怪我をさせるような機械を作ってはならない,流通させてはならないと言う技術者倫理や業界の良識に期待をするのか。

 労働者を守る厚生労働省と製造業の発展を支援する産業経済省とは,安全な機械設備で結びついており,両省の協調なくしては包括安全基準の目指すところの真の実現は難しいだろう。更に,認定・認証・検定制度,保険制度,PL法も含めて法律の一貫性,等の制度的な整備も必要である。今後,改めて欧州の歴史と現状に学び,我が国に適した仕組みを見出していく努力と,機械安全,労働安全の在り方を根本的に構造的に改革をして行く必要がありそうである。

 

5.あとがき—包括安全基準への期待--

今回,指針の通達と言う比較的軽い扱いをされているように見えるが,真に労働者の安全を守り,機械産業の発展を促進するという両面から,包括安全基準の目指すところは,実現させなければならないものであると同時に,必ずこの方向に定着していくものと期待している。その理由は,次のとおりである。まず,世界的に,特にアジア地区も含めて,我が国の回りはこの国際安全規格の方向に統一しつつあり,一人我が国だけ独自の道を行くのは難しくなること,世界的な規模の我が国の企業は,国内外を分けるのではなく統一した仕様で行かざるを得ないので,いち早くISO12100の方向,即ち包括安全基準に沿うことになり,国内の納入業者もこれに併せざるを得なくなるだろうこと,世界に飛び出したい企業はこれを採用せざるを得ないし,採用することで世界に飛躍できるチャンスが生まれるだろうこと,労働災害を発生させるような企業はイメージダウンを余儀なくされ信用をなくして企業の存在そのものが怪しくなる時代に向かいつつあること,我が国でも作業者の意識が高まりPL法が頻繁に適用されるようになり,企業防衛の点からも重大な労働災害を発生させてはならなくなるだろうこと,等々からである。このような状況を考えると,今回の厚生労働省の本包括基準に対する通達と言う取り扱いに対して,多少の疑問を抱くのは私だけではないのではないか。それでも近々に,包括安全基準に則って認証をする民間企業が生まれ,自ずと日本の産業界に包括安全基準が定着するようになると期待している。その時,厚生労働省と産業経済省とが協力をして本格的に法制度等を整備して日本の安全に関して産業界を支援することを望みたい。もしかしたら,この方向が我が国にとって最も望ましい形なのかもしれない。その為には,本包括安全基準の存在を幅広く知ってもらって,その内容を理解して貰う必要がある。本包括安全基準は安全要求基準であって,リスクアセスメントを含めて製造者,事業者自らが行うものであると共に,構造規格の様に明確に判定できる点が少なく,我が国では余り馴染みのないものであるので,特に中小企業にとって適用に迷うところが多いと予想される。幸いにも厚生労働省は,引き続き,今年度も本包括安全基準の普及,促進,定着をはかると聞いている。現場の労働者の立場に立った安全の実現のために,同じくリスクアセスメントを含む労働安全衛生マネージメントシステムと協調して,本包括安全基準の普及,促進,定着の積極的な活動を望むものである。

参考文献

(1)厚生労働省労働基準局長:機械の包括的な安全基準に関する指針について,基発第501号,平成13年6月1日(現在,中央災害防止協会にあるホームページ

http://www.jaish.gr.jp/hor_s_shsi/100206

で,この包括的な安全指針に関する指針の内容をみることが出来る)

(2)向殿政男監修,日本機械工業連合会編:ISO「機械安全」国際規格,日刊工業新聞社,19991