安全はリスクで語れるか

明治大学 理工学部
情報科学科 教授 向殿政男

DAIDO, No.102 巻頭言,p.1,大同信号株式会社,2002-6 の原稿より

 世界は今、リスクという概念を以って安全を語り始めている。
 何を以って安全とするかという安全の考え方は、その社会が持っている文化や人間の価値観などが関連して、大変難しい問題である。人間が作り出す人工物に関する安全は、工学の問題として技術的にまず実現すべきであることは,論を俟たない。しかし,安全の考え方は、安全の技術的な実現法にも大きな影響をもたらす。しかも、安全は技術的側面だけではない。人間的側面(人間の犯しがちなミスも含めた人間特性、ヒューマン・マシーンインターフェース設計,人の満足度、等)や組織的側面(マネージメント、業界や政府における規制や標準の方針,認証・認定制度や保険制度、等)などを含んだ総合的な学問体系を必要とする。特に鉄道など多くの人命を預かる分野に期待されている安全は、技術的な安全だけではない。乗客の安心、社会の安定、そして信頼、信用などに繋がる総合的な人間の判断がそこにある。
 リスクという概念は、一般には危険を意味すると解釈されているが、厳密な意味では対応する日本語は存在しない。最近、リスクという言葉は、金融や保険のリスクから、我々の直接関連する機械安全におけるリスクまで実に色々な場面に登場し,一律にはその意味は捉えきれなくなっている。しかし、機械安全の分野では、比較的明確である。現在のグローバルスタンダードの考え方では、リスクは、危険を信頼度と(損失)価値の両面から捉えた量的な概念であるとしている。危険をリスクを用いて量的に表現し,あるレベル以下のリスクしか存在しない時を以って安全と定義しているのである。国際安全規格に従ってもう少し厳密に述べるならば、ご存知の通り、リスクとは、「危害の発生確率と危害のひどさの組合せ」であり、安全とは、「受け入れることの出来ないリスクからの解放」を意味している。許容できるリスクしか存在しない時、安全と言っているということは、安全と宣言しても絶対安全を意味しているのではなく,常に事故の起こる可能性を含んだ安全である。それでも,何を以って許容できるリスクとするかという問題は、依然として残ったままである。これに関しては、そのシステムのもたらす利便性と安全性向上に必要なコスト、受け入れる社会の価値観などに従い、システムごとに個別に議論されるべき問題と考えられている。
 リスクを通した安全の考え方には、如何に確定論的に安全を築き上げていくかという構造の話、例えば鉄道で長い間掛かって築き上げてきたフェールセーフ等の考え方,が表に出てきていないことに多少の違和感を覚える。それでも、「リスクアセスメントを必ず実行して、危険源を洗い出し、その各々について安全対策を施すことでリスクを許容レベルまで下げ、その過程をすべて文書化し,残ったリスクについては使用者に使用上の情報として渡す。使用者はその情報に基づいて訓練・教育、組織等で安全を確保する。このことが形骸化しないように常にマネージメントシステムとしてPDCA(Plane, Do, Check, Action)サイクルを回す。この予防安全を第一とする安全確保のシステムを認証・認定制度や保険制度が側面から支援する。」という体制は、一貫性があり、見事である。欧州発の一方的な発想であると非難する前に、現在考えられる最も合理的で説得力あるという点からは、学ぶべき所が多いことを理解すべきである。人類がかち得た知識の一つであり、人類共通の財産と考えるべきであろう。事実、この考え方が現在のグローバルスタンダードであって、世界の安全はこの方向に動き出している。
 しかし、リスクばかりで、安全という広い概念を捉える事は出来ないだろう。技術と人間の心とは、単純な関係ではない。我が国がこれまで培ってきた高度な安全技術はもちろんのこと、客のサービスに関するこまやかな配慮、情や意欲を重視する東洋的な発想、等々、現在の世界安全規格は我が国が世界的に貢献できる余地を残して、我が国の出番を待っているはずである。
表題の「安全はリスクで語れるか」と問われた時、現時点では私は,YESと答えるのが最も妥当であろうと考えている。しかし,「安全は、リスクで語り尽くせるか」と問われれば、明らかにNOである。